前提的問題について

精神分析とトランスジェンダーに関連する文献等を紹介します。

曲紹介:Pierre

はじめに

 この投稿は、有名なイタリアのポップ/ロック・バンド、イ・プーI Pooh(のちに定冠詞を省略してプーPooh)によるヒット曲「ピエール」Pierreを紹介するものです。

この曲について

 この曲は、1976年のアルバム『プーラヴァー』Poohloverに収録されており、ライブでもよく演奏される彼らの代表曲です。
 2016年の再結成の際、他のヒット曲とともに、この曲もリレコーディングされ、ミュージックビデオとしてYouTubeに公開されました。このミュージックビデオはそのときのものです。

 Pooh - Pierre (Videoclip)

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 このミュージックビデオをはじめて観たとき、私は意外なストーリー展開(2分40秒あたりから)に驚いて、急いで歌詞の内容を確認しました。ミュージックビデオのとおり、この曲はトランスジェンダーまたは同性愛について歌ったものでした(トランスジェンダーと同性愛の関係についての議論は、ここでは省略します)。

 ……かつての同級生ピエールは、当時から他の男の子たちとは何かが違っていました。大人になった主人公は、ある夜、女性の服を着てメイクをしたピエールを見かけてしまいます。ピエールは主人公から目をそらし、主人公は当時のことを痛みとともに思い出すのです……

 このアルバムで、イ・プーはこの曲以外にもさまざまな社会問題—ロマ(ジプシー)の人々、囚人、売春など—について歌っているようです(progarchives » POOHLOVER: http://www.progarchives.com/album.asp?id=19131)。
 2005年に発売された日本盤CDの解説も確認しましたが、残念ながら、歌詞の内容には触れていませんでした。
 性的少数者の問題への取り組みがあらためて求められている現在、この曲Pierreが日本でも注目される日が来るかもしれません。

同じテーマを扱った曲

 実は、私はこの曲を以前から知っていたのですが、歌詞の内容まで気にしたことがありませんでした。このテーマを社会問題として扱った曲は珍しいのではないか、と思ったのですが、同じようなテーマを扱った比較的有名な曲があったことを思い出しました。著名なシャンソン歌手、シャルル・アズナブールCharles Aznavourの名曲「人々の言うように」Comme ils disentです。

 Charles Aznavour - Comme ils disent

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 この曲の歌詞は、Pierreとは異なり、トランスジェンダーまたは同性愛の当事者の視点で語られたものです。この曲は日本語でもカバーされており、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

文献紹介:『妄想はなぜ必要か——ラカン派の精神病臨床』

はじめに

 この投稿は、コンタルドカリガリスの著書、『妄想はなぜ必要かラカン派の精神病臨床』(岩波書店、2008年)における、トランスセクシュアリズム(性転換症)への言及を紹介するものです。
 〔 〕内は私が補足したものです。
 傍点による強調は太字で示しています。
 文献を指定しない( )内の数字は『妄想はなぜ必要かラカン派の精神病臨床』からのページ番号を示しています。

 

1. 基本情報

1.1. 書籍

 カリガリス、コンタルド(2008)『妄想はなぜ必要かラカン派の精神病臨床』(小出浩之、西尾彰泰訳)、東京:岩波書店
 ISBN 978-4-00-025302-4
 出版社書籍紹介ページ:https://www.iwanami.co.jp/book/b261031.html
 原著(フランス語):Calligaris, Contardo (1991). Pour une Clinique Différentielle des Psychoses. Paris: Point Hors Ligne.

1.2. 著者

 著者のコンタルドカリガリスContardo Calligarisは、イタリア出身、フランスで精神分析家となり、のちにブラジルに渡って活躍している(訳者あとがき)。
 2018年8月15日、来日(京都大学人文科学研究所 » 立木康介教授–Professor TSUIKI, Kosuke業績:http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/zinbun/members/private/tsuiki_list.htm)。

1.3. 訳者

 小出浩之は岐阜大学医学部教授(精神医学)であり、ジャック・ラカンセミネールをはじめ、ラカン精神分析に関連する書籍の翻訳に数多く携わっている(奥付)。
 西尾彰泰は岐阜大学非常勤講師としても勤務する精神科医(奥付)。現在(2020年6月)、岐阜大学保健管理センター教授。

2. この本の概要

 この本、『妄想はなぜ必要か』は、著者、カリガリスによる特別講義の口述筆記をもとに書かれたものであり(まえがき)、ラカン精神分析における精神病の治療について、主に著者自身が担当した症例を数多く交えながら解説したものである。
 それらの症例のなかには、本書冒頭の驚くべき生活史の男(2−9)や、ラステニー・ドゥ・フェルジョル(自分で自分の血液を抜くために起こる重症貧血)(194−196)のような一見極端で珍しく思われるもの、そして、ひとつの症例についての詳細な検討(131−155)も含まれている。
 著者、カリガリスは精神病の治療に対して、ある一貫したスタンスをとっている。それは、精神病の治療とは、精神病者が成功した妄想の構築を行うことであり、治療者は妄想の構築を支援すべきである、というものだ。「病相期における精神病者の分析作業を通して、成功した妄想を首尾よく構成することこそ、まず私たちが手をつけることのできる治療の方法なのだと、私は考えています」(83)。
 このような考え方は、フロイトの「私たちが病気の産物と考えるもの、すなわち、妄想形成は、実際には、回復の試みであり、再構築なのである」(フロイト 2015: 127)という考えとも一致するものであり、統合失調症は解体型よりも妄想型の方が予後がよい、というよく知られた経験的実感(例えば、統合失調症ナビ » 3つの病型:https://www.mental-navi.net/togoshicchosho/understand/disease/)とも一致する。〈父の名〉による父性隠喩が成立している神経症者とは異なり、〈父の名〉が排除され、父性隠喩が成立しえない精神病患者にとって、妄想の構築による妄想性隠喩こそが、父性隠喩の代理として、世界との関わりを保ち、その他のより重篤な症状に至ることを防いでいるのだ。
 しかし、実際には、治療者がこれとはまったく逆の姿勢で治療に臨んでしまうことも少なくない。すなわち、精神病の患者から妄想を取り除いて「正常化」しようとするのである。著者は「精神病患者を診ると、患者を正常化してやろうという誘惑から逃れられなくなってしまうのはなぜでしょうか」と問いかけ、この問題について検討している(159−161)。
 この他にも、発病前の精神病者の精神構造(1−44)、精神病の3類型(スキゾフレニー、パラノイア、躁うつ(精神)病)と神経症の3類型(ヒステリー、強迫症、恐怖症)とのあいだの関係性についての著者独自の理論(76−90)、強制入院や自殺の問題(167−171)、分析の終結についての考察(172−177)など、実践的で興味深い議論がいくつも収録されている。
 ただし、この本の日本語版には翻訳上の問題があると指摘されていることも付け加えておく(フロイトの不思議のメモ帳 » 2009年5月 7日(木)、カリガリス著『妄想はなぜ必要か』:http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-042d.html)。

3. この本を紹介する理由

 私がこの本を取り上げたのは、著者がトランスセクシュアリズム—この本では「性転換症」と表記されている—は精神病の一種である、と明確に述べているからである。
 精神病とは、大まかに言えば統合失調症と内因性うつ病躁うつ病—この本では「躁うつ(精神)病」と呼ばれ、神経症性の抑うつ状態と区別されている(63)—を合わせたカテゴリーであり、この定義はラカン派とその他の精神医学でほぼ共通している。
 ただし、ラカン派では、すべての人は精神病、神経症、倒錯のいずれかの精神構造をもっていると考えられる。健康な状態とは無症状の(症状の目立たない)状態にすぎず、カテゴリーとしての「健康」は存在しない。また、「境界例」のような3つの診断の中間の状態も存在しない。それでも、同一の(一見よく似た)症状が異なる構造から帰結する可能性があるので、その診断は慎重に行う必要がある。
 以上のようなラカン派独自の観点を考慮しても、性転換症が精神病の一種であるという見解は、やはりショッキングである。このような見解は、なによりも、トランスジェンダー(性転換症もその一部と考えられる)を病とみなすものであり、現代の主流となっている性の多様性という観点と対立しているように思われる。また、どの診断にも重症と軽症、さらには無症状の状態があるとしても、精神病が神経症神経症者とは「普通の人」、つまりは「(精神的に)健康な者」の別名である)より重傷である可能性が高いことに変わりはない。性転換症とは、そのような重い病なのだろうか?
 私は、自分の経験も考慮して、以下のような仮説を立てている。すなわち、トランスジェンダーの人々なかには、精神的な困難を抱える人が数多くいるが、その困難が当人の精神病構造に起因する場合が相当数存在するのではないか。また、性の多様性の言説は、性的少数者の社会的な権利の拡大という点では大いに意味のあることだが、その一方で、上記のような精神的な困難を見えにくくしているのではないか。さらに、性転換症を含む性的少数者の社会的権利を拡大しつつ、彼らの性と密接に結びついた病—私は性自体が病であるとすら考えているのだ—に対して目を閉ざすことなく、その病に由来する困難に対して正面から支援を行うことも可能なのではないか。
 私は、性転換症と精神病の関係を真剣に検討する方が、結果的に、トランスジェンダーの人々の権利を拡大し、彼らに対する支援をよりよいものにすることにつながると考えている。そのための議論のきっかけとして、ラカン派の基本的な知識は必要であるが、比較的平易な日本語で書かれたこの本を紹介することが有益であろうと考えた。ここでは、著者が性転換症に言及している箇所を中心に紹介する。

4. 性転換症への言及

 この本のなかで、著者は3箇所で性転換症に言及している。その3箇所を以下に引用する。
 最初の箇所は、「妄想的隠喩における性別化された意味作用」と題されたセクションの冒頭の部分である。この部分は、ラカン派が性転換症をどのように理解しているかを端的に述べたものであり、外科手術についての大胆な提言もある。

重要なことは、次の二つのことを理解することです。ひとつは、この父の機能が〈現実界〉に回帰するとはどういうことか、もう一つは妄想性隠喩を構成しようとする努力は何なのかということです。このような点について、私は精神病的な性転換症を範例とするのがいいと考えています。精神病的といったのは、性転換の手術を強く求める神経症者もまた存在するからです。
 性転換手術を求められた医者は、たいていの場合、患者が精神病であるか否かを確かめた後に、一般的に、精神病者に対しては手術を拒絶し、神経症者には手術を認めていることに、私は大変驚いています。逆でなければならないと、私は考えています。私に言わせれば、精神病者には手術を認めて、神経症者に対しては拒否しなければなりません。なぜなら性転換症こそ、成功した妄想を絵に描いたようなものだからです。性転換手術、つまり性を転換するために行われる外科的手術は、男から女へであろうと女から男へであろうと、それ自身が成功した妄想のひとつの例なのですから(どちらかの方向への手術も全く同じ頻度であることは興味深いことです。一般に思われているのとは違って、どちらか一方だけが非常に多いということはないのです)。
 〔……〕精神病の性転換症の症例においては、神経症的な隠喩が〈現実界〉そのものにおいて生じるのです。精神病者は〈現実界〉に回帰した父の審級に対して男性か女性かという性別化を〈現実界〉において決めるよう要求されます。性転換手術は、この点から言えば神経症者の父の隠喩の「成功した」代理物ですが、しかしそれは、戸籍上の変更まで行った場合のことです。神経症者にとっては象徴的な系譜において獲得される性的な意味作用は、精神病者にとっては外科手術による性別化という形で獲得されるわけです。
 〔……〕もし、身体という〈現実界〉において、性の変更という形で問題を解決しなければ、私たちが妄想と呼んでいる隠喩の構築を試みなくてはならないでしょう。(50−51)

 第二の箇所は、パラノイアと体感幻覚の関連について論じる際に現れる。

ここでは体感幻覚というものについて述べておかなくてはなりません。体感幻覚は、幻聴以外の幻覚ですが、パラノイアにも出現しないわけではありません。どういうことでしょうか。成功した父の隠喩は、基本的には、主体を性別化することにより、主体に意味作用を与えてくれます。神経症的隠喩も性別化を与えてくれます。だから男と女が存在するのです。しかし、この性別かは疑似隠喩、つまり妄想的隠喩でもあります。ですから、父の隠喩の代用品を探すときに、すぐに役立つ方法は、性的な意味作用の代用品を探すことです。主体は成功した妄想的隠喩を構成せよと要求しますが、それは一般的に性別化の要求です。性別化は、神経症的な隠喩、つまり父の隠喩に特有のものです。それこそが、一般的にすべての神経症の主体が父に期待しているものです。だから、先ほど性転換症transsexualismeを精神病の典型的な症例としてお話ししたのです。何しろ、性転換症は妄想の問いそのものを〈現実界〉において解こうとするからです。
 ですから、パラノイアにおける体感幻覚は幻聴以外の幻覚というより、むしろ「幻聴」のようなものだと考えられます。彼らの体感幻覚は、父による〈現実界〉の性別化、父の声の効果だからです。彼らの体感幻覚は、主体の性の変化という観点から考察されなければなりません。(87−88)

 第三の箇所は、マリオ・コルソによる詳細な症例報告の後、その症例についての討論のなかに現れる。この症例では、治療者がバカンスで旅行に行く日に患者が自殺を試みており、このコメントはその(自殺企図という)行為への移行に言及したものである。

〔C・カリガリス〕この症例では、もっと重要なことがあります。妄想的隠喩を構築することができなかったという意味で、妄想が成功しなかったわけではありません。妄想は成功しているのです。しかしそれは耐え難いのです。患者の妄想は(パラノイアとして)成功していますが、父によって要請される代価が耐え難いのです。性転換症の人が外科手術を行うまでに至るのも同じです。妄想が耐え難いかどうかは、患者自身の感じ方によります。(154)

5. 精神病の症状としての性転換症

 これらの言及は、性転換症が精神病の症状のひとつである、という前提にもとづくものである。このような前提は、近年の主流となっているトランスジェンダーの脱病理化の主張だけでなく、性別違和と精神病性の妄想を鑑別できるとする、DSM-5などに見られる主要な精神医学の主張とも対立しているように見える。例えばDSM-5では次のように述べられている。

統合失調症および精神病性障害統合失調症においては、別の性別に属しているという妄想がまれに存在することがある。精神病症状が存在しない場合は、性別違和の人による「私は別のジェンダーに属している」という主張は妄想とはみなされない。統合失調症(または、その他の精神病性障害)と性別違和が同時に存在してもよい。(アメリカ精神医学会 2013: 450−451)

 しかし、このような対立が実際には表面的なものにすぎないことが、上記の言及から理解できるだろう。「性転換手術、つまり性を転換するために行われる外科的手術は、男から女へであろうと女から男へであろうと、それ自身が成功した妄想のひとつの例なのですから」(50)という指摘は、性転換症が、フロイトの言葉を借りれば、成功した「回復の試み」(フロイト 2015: 127)である、ということを示唆するものである。
 回復の試みが成功したということは、性転換の要求以外の症状(妄想や幻覚)が抑えられ、病状が安定することを意味している。すなわち、「もし、身体という〈現実界〉において、性の変更という形で問題を解決しなければ、私たちが妄想と呼んでいる隠喩の構築を試みなくてはならないでしょう」(51)ということは、性の変更という形の解決がなされれば妄想の構築は必要ない、というわけである。
 また、第二の箇所では、性転換症は「精神病の典型的な症例」である、と断定的に述べられている。これは間違いなく、ラカンが精神病について論じるなかで、50年代には「女性化」を、70年代には「女−なるもの−への−駆り立て」を提唱し、精神病と「女になること」との関係を理論化しつづけていたことを踏まえたものである。
 さらに、ラカンシュレーバー症例を中心として精神病についての理論を構築する際に、実際に性転換症の患者(症例アンリ)を診ていたことを踏まえている可能性もある。ラカンと症例アンリの経緯についてはゲローヴィチによる解説が参考になる(Gherovici 2010: 151−166)。

6. 性転換症の治療

 最初の箇所で、著者は性転換手術のような外科的な治療にも肯定的な見解を示している。精神病の治療について、著者は患者が妄想を構築するのを支援すべきであるというスタンスを取っている、と先に述べた。このようなスタンスにもとづけば、外科的な治療もまた性を変えるという「妄想」(成功した回復の試み)の構築を支援する手段のひとつと考えることができる。
 著者は、医師が一般に神経症者に対しては手術を認め、精神病者に対しては拒否することに、逆でなければならない、と反論している(50)。それでは、性の変更の妄想が成功した回復の試みとして他の精神病的な症状を防ぐのだとしたら、そのような「症状のない」精神病者神経症者とをどう見分けるのだろうか? この問いに対しては、著者が精神病者の発症前の状態をかなり長く論じていたことからもわかるように、ラカン派では、明らかな症状がない場合でも、精神病であるかどうか鑑別できる、と考えられていることが答えになるかもしれない。
 また、著者が神経症者に対しては手術を拒否するべきだと考えている理由は何か? そして、神経症者が性転換手術を強く求めるのはどのような場合なのか? これらの問いに答えるためには、神経症者の性がどのように構成されているかを理解しなければならず、この本(およびこの文献紹介)で扱える範囲を大きく逸脱してしまう。しかし、ラカン派では神経症者の性について詳細な議論が行われていることは付け加えておく。例えば、代表的なものに「性別化の式」がある(ラカン 2019)。
 ただし、医師が実際に「患者が精神病であるか否かを確かめた後に、一般的に、精神病者に対しては手術を拒絶し、神経症者には手術を認めている」かどうか、私にはわからない。少なくとも日本のようなラカン派の影響がないところでは、ラカン派的な意味での精神病・神経症の鑑別診断は行われていないはずである。私の経験では、精神科的な症状が少ない方が性を変更する治療は受けやすい傾向にあると思われるが、その結果として、精神病の患者よりも神経症の患者の方が多く手術を認められている可能性はあるかもしれない。
 また、外科的な治療に対してラカン派の分析家がこのような肯定的見解を示すことは比較的珍しいことかもしれない。例えば、ミヨは性の変更を支援すること自体に否定的であるように見えるし(Millot 1990)、モレルもまた外科的な治療に対して否定的な見解を示している(Morel 2011: 189)。
 私自身も、ここでの著者の見解は大胆すぎる—実際には簡潔すぎるだけなのかもしれないが—と感じている。例えば、精神病で性転換手術を強く要求している症例であっても、外科手術が推奨されない場合は確実にあるだろう。
 また第三の箇所では、性転換手術と自殺企図のような行為への移行との関連がほのめかされる。これは、著者が外科手術を自殺のような苛烈な行動の一種と考えていることを示唆しているかもしれない。私自身は、ここで著者が述べていることは、トランスジェンダーの人々における自殺率の高さ(例えば、James, et al. 2016: 112−115を見よ)と関連があるかもしれない、と推測している。

7. この本における性転換症への言及はどれほど知られているのか?

 この本のなかの性転換症への言及はわずかではあるが、それらは性転換症が精神病の一種であると明確に述べた決定的なものである。それにもかかわらず、これらの言及はあまり注目されていないのではないだろうか。
 おそらく、この本の読者のほとんどが精神病理学精神分析に関心からこの本を手に取ったものと思われるが、性転換症は統合失調症や躁うつ精神病よりもずっと珍しいため、そのような読者がこれらの言及を実際的あるいは臨床的な問題と考える可能性は低いかもしれない。もし仮にトランスジェンダースタディーズやクィアスタディーズに関心のある読者がこの本を手に取ったとしても、これらの言及はトランスジェンダーを病理とみなす「古い」観点にもとづくものであるとして(原著の出版は1991年)注目されることなく片付けられてしまうかもしれない。
 また、たとえ注目されたとしても、ラカン派がトランスジェンダーに対して攻撃的、差別的であることの証拠として非難の対象とされてしまうかもしれない。しかし、私はそのような非難も見たことがない。
 そもそも、この本自体がほとんど知られていないのだろうし、精神分析自体—なかでもラカン—もまた日本ではほとんど知られていないのだ。

8. 結論

 ラカン精神分析は、その一見難解な理論から、哲学、思想、あるいはカルチュラル・スタディーズでは利用できても臨床実践では使えない、と考えられがちであるが、この本はラカン派が極めて臨床的、実践的なものであることを示してくれる。また、ラカン派の精神病者に対するスタンスが、精神病者ひとり一人の世界を尊重するものであることも、この本から理解できるだろう。妄想を取り除いて「正常化」することが治療のゴールではないのだ。
 ただし、この本のメインテーマは精神病、とくに妄想や幻覚をともなうよう症例の臨床であり、トランスジェンダー(具体的にはそのなかの性転換症)への言及はそのごく一部にすぎない。そのため、この本自体がトランスジェンダーについての議論の素材を直接提供しくれるわけではない。
 精神分析的なトランスジェンダーの臨床があるとすれば、それはどのようなものになるのか、この本のなかでの言及を足がかりとして、私たち自身で探求していく必要があるだろう。おそらくは、トランスジェンダーの人々のひとり一人の性のあり方を尊重する、極めて実践的な臨床が可能になるはずである。

参考文献

  • アメリカ精神医学会(2013)『DSM-5精神疾患の診断・統計マニュアル』(高橋三郎、大野裕監訳)、東京:医学書院。
  • フロイトジークムント(2015)『シュレーバー症例論』(金関猛訳)、東京:中央公論社
  • Gherovici, Patricia (2010). Please Select Your Gender: from the Invention of Hysteria to the Democratizing of Transgenderism. New York : Routledge.
  • James, S. E., Herman, J. L., Rankin, S., Keisling, M., Mottet, L., & Anafi, M. (2016). The Report of the 2015 U.S. Transgender Survey. Washington, DC: National Center for Transgender Equality. Retrieved from https://transequality.org/sites/default/files/docs/usts/USTS-Full-Report-Dec17.pdf
  • ラカン、ジャック(2019)『アンコールセミネール第XX巻』(藤田博史、片山文保訳)、東京:講談社
  • Millot, Catherine (1990). Horsexe: Essay on Transsexuality. New York: Autonomedia.
  • Morel, Geneviève (2011). Sexual Ambiguities: Sexuation and Psychoses. London: Karnac.

文献紹介:Men Trapped in Men’s Bodies: Narratives of Autogynephilic Transsexualism

はじめに

 この投稿は、Anne A. Lawrenceの著書、Men Trapped in Men’s Bodies: Narratives of Autogynephilic Transsexualism (Springer, 2013) を紹介するものです。
 英文の日本語訳は原則として私が行いましたが、日本語訳が出版されているものについてはそちらを参照しました。
 〔 〕内は私が補足したものです。
 文献を指定しない( )内の数字はMen Trapped in Men’s Bodies: Narratives of Autogynephilic Transsexualismからのページ番号を示しています。


1. 基本情報

1.1. 書籍

 Lawrence, Anne A. (2013). Men Trapped in Men’s Bodies: Narratives of Autogynephilic Transsexualism. New York: Springer.
 ISBN 978-1-4939-0671-0 (Softcover)
 出版社書籍紹介ページ:https://www.springer.com/jp/book/9781461451815#otherversion=9781493906710


1.2. 著者

 著者のアン・A・ローレンスAnne A. Lawrenceは、アメリカの心理学者、性科学者、麻酔科医。自身もオートガイネフィリア的トランスセクシュアルを自認する。トランスセクシュアリズム、オートガイネフィリアについての論文を数多く発表しており、この本が初の単著である。
 公式ウェブサイト:http://www.annelawrence.com


2. この本の概要

 1998年10月から2011年10月にかけて、著者のローレンスは、自身のウェブサイトを通じて、MtF(男性−から−女性−へのmale-to-female)トランスセクシュアルを自認する人々から、オートガイネフィリアについての体験談を募集した。この本は、そこで集められた語りにもとづいて、オートガイネフィリアという現象を幅広く記述し、その特徴を分析したものであり、実際に投稿された語りが数多く収録されている。
 オートガイネフィリアautogynephiliaは「自分自身が女であるという考えによって性的に興奮するという、男性における傾向」と定義され、ギリシア語の「自己auto、女性gynē、愛philia」を組み合わせた造語である(6)。カナダ、トロント大学の心理学者、性科学者、レイ・ブランチャードが1989年にこの用語を発案した(Blanchard 1989)。ブランチャードは、MtFトランスセクシュアルは同性愛的MtFトランスセクシュアルと非同性愛的MtFトランスセクシュアルの二つに分類でき、非同性愛的なタイプの性別移行の動機がオートガイネフィリアであると理論化した。
 ちなみに、オートガイネフィリアはDSM-5では「自己女性化愛好症」と訳されているが(アメリカ精神医学会 2013: 812)、その前の版、DSM-IV-TRでは「自己女性化性愛」と訳されていた(アメリカ精神医学会 2002: 549, 554)。
 オートガイネフィリアはパラフィリアの一種とされ、それを抱える個人が女性的ではない傾向があることから、オートガイネフィリアから性別移行を求める人々は、女性の性自認gender identityをもった真の「トランスセクシュアル」ではない、と考えられがちである。そのため、そのような人々には性別移行gender transitionのための治療(ホルモン的、外科的)は推奨されない、と考えられる場合が多い(例えば、古橋 2012)。このような一般的な理解に対して、著者は、オートガイネフィリアによる性別違和gender dysphoriaもまた真の違和であり、性別移行のための治療は認められる、と主張する。この本のなかで、著者はオートガイネフィリアによる性別違和の治療に性別移行が有効であることを示し、またオートガイネフィリアはけっして珍しい現象ではない(とくに西洋諸国のMtFトランスセクシュアルにおいては)ことを示す。
 この本のなかで提示された症例や、引用された語りの数々は、オートガイネフィリアとトランスセクシュアリズムに関して、これまであまり議論されてこなかったが重要である点を的確に提示している。また、強制的女性化forced feminizationの空想やパラフィリアの代替paraphilic substitutionといった、これまでほとんど注目されていなかった現象を明確に記述した点も注目に値する。
 さらに、オートガイネフィリアを経験している個人が、性別移行のための治療が受けられなくなることを恐れて、それについて語ることが困難になっている現状を記述し、最終章ではこのような現状を変えるための提言も行う。


3. この本を紹介する理由

 オートガイネフィリアについて、日本ではほとんど論じられていない。インターネット上には、オートガイネフィリアについて書かれたものがいくつか見つかるが、それらの大部分は出典を明記しておらず、多くの場合、その内容も正確ではない。
 しかし、私自身がオートガイネフィリアにかなり類似した症状をもっていたように、この症状をもっている人々は日本にも相当数いると思われる。日本でも、例えば「それは本物の性同一性障害ではない」、「それはただの変態で治療は受けられない」といったように、オートガイネフィリアという現象はネガティブな意味で語られがちである。そのため、オートガイネフィリアを経験している人々は、そのことで深く悩んでいる可能性が高い。そのような人々のためにも、オートガイネフィリアについての正確な情報は必要とされているはずである。
 このような状況から、私はこの本の内容をやや詳細に紹介することにした。この本は、オートガイネフィリアという用語の発案者であるレイ・ブランチャードその人が序文を書いていることからもわかるとおり、オートガイネフィリアという現象を理解するうえで最良の一冊である。
 それでも、各章ごとのさらに詳細な読解、私自身の見解の詳細な提示、他の文献と比較しての検討は別の機会に譲ることにする。その代わりに、ここでは、オートガイネフィリアについての日本における一般的、通俗的な理解(インターネット上で見られるような)とこの本の内容とを比較することで、オートガイネフィリアについて、その提唱者が実際には何を述べていたかを明確化することを目指す。
 また、私は、在野でラカン精神分析を研究するものとして、精神分析的観点からオートガイネフィリアの理論に対する疑問点をいくつか提示するつもりである。オートガイネフィリアについて精神分析からのアプローチを可能にする土台を作ることもこの文章の目的である。


4. オートガイネフィリアについての通俗的な理解

 それでも、出典元を明記しない、通俗的な見解であれば、インターネット上などでいくつか見つけることができる。最初に、オートガイネフィリアについての通俗的な見解のなかで代表的なものを簡潔に述べておこう。
 オートガイネフィリアの個人と性同一性障害の個人はともに「女性になることを望む」が、それでもオートガイネフィリアと性同一性障害は別物であると理解されているようだ。性同一性障害は女性の性自認があり(すなわち「心は女性」)、身体を性自認に合わせ、社会的にも性自認と同じ性別で生活することを望むために、女性になることを望む。それに対して、オートガイネフィリア者は女性になるという考えに性的に興奮するため、性的興奮を得るために自分が女性になることを望む。よって、「女性になりたい」と思っていても、性自認は男性である。このことは、「女が好きすぎて自分も女になりたい」と表現されることもある。
 ここから、オートガイネフィリア者は性別移行して女性になるべきではない、という結論が導き出される。オートガイネフィリア者にとって、女性になる目的はあくまで性的興奮を得るためである。よって、社会的に女性として生活することは(少なくとも心の底では)望んでいない。また、ホルモン療法や性別適合手術Sex Reasignment Surgery(SRS)は性的興奮を弱めたり消失させたりするので、女性になる動機を消してしまう。このような理由から、性同一性障害の場合のような、性別移行のための治療は推奨されない、と理解されている。
 また、男性との本物の恋愛関係になることもない、と考えられている。というのも、オートガイネフィリア者は自分が女性になることに性的に興奮しているだけであり、男性に性的に興奮しているわけではないからだ。男性に性的に興奮しているように見える場合でも、実際にはその男性から女性として扱われることに性的に興奮しているのである。
 さらに、オートガイネフィリアがパラフィリアの一種であることはよく知られているようだ。しかし、パラフィリアの定義がよく知られておらず(実際にその定義は曖昧なものである)、オートガイネフィリアは性同一性障害のような「真面目な」ものではなく、ペドフィリアフェティシズムと近縁の性的な異常である、という程度の理解にとどまっている。
 以上、オートガイネフィリアについての通俗的な理解に目を通してきた。実は、これらの理解はけっして完全に間違っているわけではないが、オートガイネフィリアの提唱者による見解とは微妙に異なっている。以降のセクションでは、このような理解と、ローレンスが自身の著書のなかで提示した見解とを比較し、オートガイネフィリアについてその提唱者が実際に述べていることを明らかにしていく。


5. オートガイネフィリアと性同一性障害

 先に、一般的には、オートガイネフィリアと性同一性障害は別の現象であると理解されていると述べたが、このような理解は、完全に間違いとは言い切れないまでも、やはり正確なものではない。性同一性障害という用語自体がけっして明確に定義されたものではないが(実際に、DSM-5では姿を消している)、ここではこの用語の問題には触れずに、このような通俗的な理解が成立した原因と考えられるものを、オートガイネフィリアという用語が発案された経緯に遡って説明する。
 まず、ブランチャードがオートガイネフィリアという用語を発案する以前から、MtFトランスセクシュアルには複数の類型があり、それぞれに異なった原因があると想定されていた。ローレンスは次のように述べている。

性別違和またはトランスセクシュアリズムのある男たちの臨床像が多様であることを、臨床家たちは数十年にわたって認識していた。多くの調査者たちが、おそらくはまったく異なった病因をもつ、二種類以上の異なる形態のMtFトランスセクシュアリズムがあるという仮説を立てていた。(10)

 とくに、幼少期から女性的な行動を示すもの(「早発性」または「一次」トランスセクシュアル)と、思春期以降に女性になることを求めはじめる(「晩発性」または「二次」トランスセクシュアル)が存在することが知られていた。
 このような状況のなかで、ブランチャードはMtFトランスセクシュアルを性指向にもとづいて分類することを試みる。この分類法は先駆的な性科学者、マグヌス・ヒルシュフェルトが自著『トランスヴェスタイト』のなかで使用したものを参照したものである。こうして、ブランチャードはMtFトランスセクシュアルを次の4つのグループに分類した。すなわち、同性愛的homosexual(男性を性愛の対象として指向するもの)、異性愛的heterosexual(女性を性愛の対象として指向するもの)、両性愛的bisexual(男性と女性の両方を指向するもの)、非他愛的analloerotic(他人を性愛の対象としないもの、無性愛的asexualと呼ばれることもある)の4グループである(10)。
 これら4つのグループの特徴を比較することで、ブランチャードはある種の法則性を発見する。異性装(女性の服を着ること)に関連する性的興奮の経歴の有無が、同性愛的グループとそれ以外の—非同性愛的—グループで大きな違いを示したのだ。

初期の調査で、ブランチャード(Blanchard, 1985b)は163 人のMtFトランスセクシュアルの患者をヒルシュフェルトの四つのカテゴリーをもちいて分類し、それぞれのグループにおいて異性装と関連した性的興奮の経歴がある患者のパーセンテージを検討した。異性愛的、両性愛的、無性愛的/非他愛的を合わせたグループの73% の患者がそのような経歴を報告したのに対し、同性愛的なグループでは15% にすぎない—大いに有意な差である—ということを彼は発見した。(10)

 ブランチャードはここに両グループのトランスセクシュアリズムの原因を見出す。すなわち、同性愛的MtFトランスセクシュアルは極度に女性的な同性愛の男性であり、男性を引き付けるために自らを女性化する。それに対して、非同性愛的MtFトランスセクシュアルは、自分が女性になるという考えに性的に興奮する—すなわち、オートガイネフィリアである—ために、性的興奮を求めて女性になることを望む。それゆえに、非同性愛的MtFトランスセクシュアルは女性を性愛の対象として(ただし女性の他人ではなく女性になった自分を)指向する異性愛の男性であると考えられる。
 よって、MtFトランスセクシュアルを説明するものとしてよく知られている「男の身体に囚われた女women trapped in men’s bodies」という表現は、同性愛的MtFトランスセクシュアルには当てはまるが、非同性愛的MtFトランスセクシュアルには当てはまらない(1−2)。
 同性愛的グループが子供時代の早期から女性的な行動を示しつづけていたのに対し、非同性愛的グループは子供時代には女性的な行動を示さず、成人してからも男性的な職業や活動を選択する傾向にあったことも、このような原因の違いから説明することが可能になる。すなわち、同性愛的MtFトランスセクシュアルは「早発性」あるいは「一次」トランスセクシュアルに、非同性愛的MtFトランスセクシュアルは「晩発性」あるいは「二次」トランスセクシュアルに相当するというのである。
 このように、ブランチャードは性指向から性自認が派生してくると考えており、この点が、性指向と性自認はそれぞれ独立しているという現在主流な考えの人々から批判を招くこととなった。
 以上の説明で、最初に述べた通俗的な理解の原因となったものが明らかになる。「オートガイネフィリアと性同一性障害の違い」と考えられていたものは、実際には「非同性愛的(オートガイネフィリア的)MtFトランスセクシュアルと同性愛的MtFトランスセクシュアルの違い」のことである。そして、同性愛的MtFトランスセクシュアルが「女性的」であるのに対して、非同性愛的MtFトランスセクシュアルは「男性的」であるため、同性愛的なものの方がより性別移行にふさわしいように思われるのだ。
 しかし、オートガイネフィリア的MtFトランスセクシュアリズムと同性愛的MtFトランスセクシュアリズムは、どちらもトランスセクシュアリズムの下位分類として理論化されたものであり、「女性になりたい」動機としてオートガイネフィリアが不適当であると述べているわけでもない。言い換えれば、オートガイネフィリア的MtFトランスセクシュアリズムと同性愛的MtFトランスセクシュアリズムはどちらも性同一性障害に含まれるのである。
 ただし、オートガイネフィリア者が同性愛的MtFトランスセクシュアルと比較して心理的に「女性的でない」ことはブランチャードもローレンスも認めてはいる。では、女性的でないはずのオートガイネフィリア者の性別移行について、私たちはどう考えたらよいのだろうか?


6. オートガイネフィリア者の性別移行

 実際、通俗的な理解では、オートガイネフィリア者は性別移行して女性になるべきではない、とされているようだ。それは、オートガイネフィリア者が女性の性自認をもっておらず、女性的な心理的特徴をもっていないと考えられるからである。
 しかし、このような見解はオートガイネフィリアの提唱者たちによるものとはかなり異なっている。例えば、ローレンスはこの本のなかで以下のように述べ、オートガイネフィリア者の性別移行を肯定している。

私は、そのような〔オートガイネフィリアについての〕語りを利用可能なものにすることが必要であると信じている。それは、専門職にとっては、ブランチャードが記述した現象についての具体的な説明を提供するものであり、〔オートガイネフィリアに由来する〕性別違和と苦闘する男にとっては、自分がひとりきりでも、狂っているわけでも、性別適合の資格がないわけでもないという安心をもたらすものである。(37)

 また彼女は、オートガイネフィリアの理論が自身の性別移行を後押ししてくれたことも認めている。

私はブランチャードの理論を輝かしい啓示的なものであるとみなしている。臨床家として、そして研究者として、私はその説明的、予測的、発明的価値を認めている。それによる洞察なしには、私は性別適合をけっして完了できなかっただろうし、その点でも、私はとても感謝している。(202−203)

 すなわち、オートガイネフィリアの提唱者は、オートガイネフィリア者は性別移行して女性になるべきではない、とは述べていない。むしろ、オートガイネフィリアを性別移行の正当な動機として認めているのだ。その理由は、オートガイネフィリア者の性自認についての解釈にある。


7. オートガイネフィリア者の性自認

 オートガイネフィリア者の性別移行が正当なものとみなされるということは、オートガイネフィリア者は女性の性自認をもっているということなのだろうか—ブランチャードおよびローレンスの結論はイエスである。すなわち、オートガイネフィリア者は、当初、エロティックな動機から異性装(および異性装をともなったマスターベーション)を行うが、それが数年、数十年単位で繰り返されるうちに、強く持続的な女性の性自認を徐々に発達させるというのだ。

ブランチャード(Blanchard, 1991)はさらに、非同性愛的MtF トランスセクシュアリズムはオートガイネフィリア的な性的興奮にその起源をもつが、最終的にはそれ自体で持続する力を発達させるのであり、性的興奮それ自体はほとんど、あるいはまったくその持続的な力に関与しないようになる、と理論化した。(20)

 さらに、こうして形成された女性の性自認は、当初のエロティックな興奮が弱まった、あるいは消失した後も存続し、女性になりたいという願望を持続させる。ブランチャードは、これが夫婦関係と類似していることを指摘している。

ブランチャードは、非同性愛的MtF トランスセクシュアリズムはエロティックな現象としてはじまり、もっとも広い意味では性的な現象のままでありつづける、と主張していた。しかしながら、トランスセクシュアリズムの願望は、その早期の段階を特徴づけるエロティックな要素が弱まった、あるいは消失した後も、ペアの絆—愛着の一形態—に類似したものによって最終的には持続しうる。それはちょうど、よくあるロマンティックな関係が、早期の段階の強いエロティックな魅了が消えはじめた後も、ペアの絆や愛着によって維持されうるのと同じである。(20)

 このことは、ブランチャードだけが述べたものではなく、数人の研究者たちが同様の結論に達している(21)。ここから、ローレンスは、非同性愛的MtFトランスセクシュアルは心理学的には「男性的」であるが、それでも男性の身体に閉じ込められていると感じることになる、と理論化し、この逆説的に見える状況を「男の身体に囚われた男men trapped in men’s bodies」と表現した——これがこの本の表題である。
 オートガイネフィリアの理論は、最初のころの異性装にともなうエロティックな興奮が消失した後も、新たに獲得された女性の性自認は存続しうる、というものであった—より正確に言えば、もともと、そのような観察結果を説明するために考え出されたものであった。それゆえに、通俗的な理解とは反対に、この理論はオートガイネフィリア者の性別移行をむしろ肯定するものだったのである。
 ただし、エロティックな異性装を繰り返すことで、なぜ新たな性自認が発達するのか、この本のなかでは明らかにされていない。ローレンスは、その過程が「それを経験している私たちのような人々にとってさえ、理解したり、適切に説明することが難しいもの」(21)であると述べるにとどまっている。
 私は、この問題を考えるには精神分析的な観点(なかでも、ラカンが精神病における「女性化」および「女−なるもの−への−駆り立てpousse-a-la-femme」として理論化したもの)が不可欠なのではないか、と予想している。


8. オートガイネフィリア者のホルモン療法

 オートガイネフィリア者は、たしかに、少なくとも最初は性的興奮を得るために女性になることを望んでいるが、徐々に発達してきた女性の性自認は性的興奮なしでも持続する。よって、ホルモン療法によって性的興奮を得たいという衝動、性欲動(通俗的に言えば、いわゆる性欲)が減少しても、女性になりたいという願望は消失しないことが予想される。
 実際に、ローレンスはこの本の「ホルモン療法の影響」と題されたセクションで、投稿された語りのなかから、この予想のとおりの内容を記述したものを引用している(149)。さらに、語りを投稿した情報提供者のなかには、性的興奮がなくなったことに対する満足を述べるものもいた。ここからローレンスは次のように述べている。

これら情報提供者はみな、女性化ホルモン療法を求める理由のひとつは、それがもたらす身体的女性化に加えて、望まれざる性欲動を減少させる、あるいは消去するためである、と述べていた。彼女らの発言は、オートガイネフィリア的な性的感覚が、ときに、苦痛をもたらす、あるいは価値を損なうものであると説明する、先述のいくつかの語りとも一致する。これらの情報提供者のうち二人が、性的感覚の減少にもかかわらず、女として生きたいという欲望は変化せずに継続した、と明確に述べて、あるいは暗黙のうちに示唆していた。明らかに、彼女らの横断的性自認は、オートガイネフィリア的な性的欲望の減少あるいは消去を乗り越えるほどに、強く持続的なものであった。(149)

 「オートガイネフィリア的な性的感覚が、ときに、苦痛をもたらす」という部分は意外に思われるかもしれないが、このような性的興奮が苦痛であるという感覚は、この本に引用された語りのなかで、たびたび表明されるものである。
 著者、ローレンスはこの部分にとくに注目していないように思われるが、私は、苦痛と性的感覚との同時発生を記述したこの部分にこそ、オートガイネフィリアと精神分析(とくにラカン派)を結びつける可能性があると考えている。このような感覚を、フロイトは欲動Trieb(英語ではdrive)と呼び、ラカンは享楽jouissanceと呼んだのだ。
 ただし、通俗的な理解のほうを裏づけるような語り、すなわち、ホルモン療法によって女性になりたいという欲望が消えてしまったと記述する語りも投稿されていた(149−151)。そして、ローレンス自身もそのような経過をたどるオートガイネフィリア者のクライエントを実際に診察していた。ホルモン療法によって女性なりたいという欲望が消える場合と消えない場合があることについて、ローレンスは次のように述べている。

女性化に十分な量のホルモンを摂取したのちに、移行したいという欲望がなくなってしまうオートガイネフィリアのクライエントがいる一方で、そうではないものもいる。彼女らの移行したいという欲望は、性欲動とそれに関連するオートガイネフィリア的興奮が完全になくなった後も、強いままなのだ。私は次のような仮説を立てている。すなわち、ある個人が、性欲動とオートガイネフィリア的興奮がなくなったにもかかわらず、ホルモン療法とジェンダーの移行を継続したいと望むのは、その個人の性別違和がより強く、もはや揺るぎなく(そして、それゆえにより強くより持続的な横断的性自認に関連する)、解剖学的特徴により強く焦点が当てられている(すなわち、解剖学的オートガイネフィリアにおもに駆り立てられている)場合ではないか、という仮説である。しかしながら、私はこの問題についての正式な研究を見たことがない。(151)


9. オートガイネフィリア者のSRS

 ローレンスは、オートガイネフィリアの理論からはオートガイネフィリア的興奮はSRS後も持続することが予想される、と述べており(89)、実際に、投稿された語りのなかでは多くのものがSRS後もオートガイネフィリア的興奮を経験しつづけていた。よって、SRSは女性になることによる性的興奮を感じるための器官を取り去ってしまうので、オートガイネフィリア者はSRSを受けるべきではない、という通俗的な理解は誤りであったと考えられる。
 しかし、SRS後にオルガスムに達することができないことで悩んでいたことを示す語りも紹介されており、ローレンスはそのようなクライエントを実際に診察したことがあるという(92)。そのようなクライエントに対して、ローレンスは次のように述べている。

私は、しばしば、これらのクライエントに、なかでもSRS の前にもっていたオートガイネフィリア的空想と同じものを利用してみるようアドバイスしていた。多くのケースでは、以前のオートガイネフィリア的空想を復活させることが、高いレベルのエロティックな興奮を促し、最終的には、クライエントがオルガスムに達することを可能にした。(92)


10. オートガイネフィリア者が性別移行してよい場合、しない方がよい場合

 ここまで、オートガイネフィリアの理論について概観してきたが、ここから、通俗的な理解のように、オートガイネフィリア者は性別移行すべきでないと単純に判断することはできない、ということが明らかになった。では、性別移行するか否かを判断する他の基準はあるのだろうか?
 ローレンスは、この本のなかで、当然この問題に言及している。

私の実践のなかで、オートガイネフィリアのクライエントが、直接的に表明するか否かにかかわらず、もっとも頻繁に答えてもらいたいと考えている問いは、「私は本当にトランスセクシュアルなのか? それともただのトランスヴェスタイトなのか?」というものだ。彼らは、通例、診断を受けることが自分の性別違和への対処法を決めるうえで役に立つことを期待しているのだ。(205)

 しかし、ローレンスは安易な答えを出さない。そのようなクライエントに対して、彼女は次の2つのメッセージを与えるという。すなわち、「第一に、トランスセクシュアリズムとより深刻でない形態の性別違和のあいだに境界線を引くことは、不可能ではないにしても、しばしば非常に困難である」こと、そして「第二に、たとえトランスセクシュアリズムの診断を行ったとしても、それによって特定の治療計画がかならずしも決定されるわけではない」ことである(205)。このような一見割り切れない態度を取るのは、以下のようなケースが存在するからだ。

明らかなトランスセクシュアルで、深刻な性別違和のあるオートガイネフィリアの男が、性別適合を受けないという決断をして、自分の特定の状況ではその決断が正しかったと自信をもって言える場合もある。トランスセクシュアルであるかどうかがより明らかでなく、より深刻でない性別違和のあるオートガイネフィリアの男が、性別適合を受けることを決断し、その決断にとても満足する場合もある。(205−206)

 この問題を、ローレンスは「実存的ジレンマexistential dilemma」と呼ぶ(206, section title)。オートガイネフィリアに由来する性別違和を経験するものは、このジレンマに対して、自分自身で決断を下さなければならないのだ。この決断の厳しさ、難しさは、より単純な通俗的理解をもとめてしまう理由のひとつなのかもしれない。
 さらに、ここには注目すべき点がもうひとつある。ブランチャードおよびローレンスは、エロティックな目的の異性装、性別違和、トランスセクシュアリズムは「症候学的連続体」である(43)、すなわち、これらが一種のスペクトラムになっていると考えているのだ。トランスヴェスタイトトランスセクシュアルのあいだに、明確な境界線は存在しないのである。


11. オートガイネフィリアとパラフィリア

 通俗的な理解でも、オートガイネフィリアがパラフィリアの一種であることはよく知られているようだ。では、オートガイネフィリアは、具体的にどのような点で、他のパラフィリアフェティシズムペドフィリアなど—と同じ現象であると言えるのだろうか。ここでは、ローレンスの本のなかからその共通点を3つ挙げてみよう。


11.1. オートガイネフィリアはトランスヴェスティズム的フェティシズムから派生した

 オートガイネフィリアはもともとトランスヴェスティズム的フェティシズム(服装倒錯的フェティシズム)から派生してきた概念であった。トランスヴェスティズム的フェティシズムは女性の「衣服」をフェティッシュとし、それを身につけることで性的興奮を得るものであるが、ブランチャードはこのフェティッシュの概念を女性になるという「観念」自体にまで拡大し、このことがオートガイネフィリアの導入につながったのである。

ブランチャードはフェティッシュ対象の考えを拡大して女性性の象徴となる活動を含むものとし、次のように述べた。「個人の好みのそのような象徴は女の服でなはなく、メイクをしたり脚の毛を剃ったりするような、女性の身なりの何らかの側面であるかもしれない」(p. 249)。この拡大されたフェティッシュ対象の概念は、オートガイネフィリア概念の輪郭をよりはっきりさせるための基礎になったと考えられる。(11)


11.2. エロティックな目標の位置づけ間違い

 オートガイネフィリアは自分の身体を自分が欲望する対象に変えたいと望むものであるが、このような「自分の身体を自分が欲望する対象に変えたいと望む」現象は、ペドフィリアのようなオートガイネフィリア以外のパラフィリアでも見られる。この本のなかで、ローレンスは以下のような症例のデータがあると述べている。

子供に性的に惹かれ、子供に同一化し、子供の服を着ることによって性的に興奮し、自分の身体を子供の身体の複写に変えたいと望む男たち。肢体切断者に性的に惹かれ、肢体切断者に同一化し、肢体切断者を真似することで性的に興奮し、肢体切断者になるために外科手術を受けたいと望む男たち。動物のぬいぐるみに性的に興奮し、動物のぬいぐるみに同一化しているように見え、動物のぬいぐるみの真似をすることを好み、ときにそうすることで性的に興奮し、おそらく自分の身体を動物のぬいぐるみの複写に変えることを空想している男たち。そして、本物の動物に性的に惹かれ、本物の動物に同一化し、いくつかのケースでは—これは思弁的ではあるが—本物の動物になるという考えで性的に興奮し、自分の身体を本物の動物の身体の複写に変えることについて空想する男たち。(25)

 このような症例とオートガイネフィリアの類似性は明らかである。なぜなら、オートガイネフィリアとは「女に性的に惹かれ、女に同一化し、女の服を着ることで性的に興奮し、自分の身体を女の身体の複写に変えたいと望む男という現象」であるからだ(25)。このような観察結果にもとづいて、ブランチャードは、フロイントともにこう述べている。

あらゆる種類の性的対象に対して、欲望する対象になるというエロティックな空想を発達さる、そして自身の身体を欲望する対象の複写に変形するという持続的な願望を発達させる男によって構成される小さなサブグループが存在することになるだろう。(24)

 ブランチャードとフロイントは、このような現象を「エロティックな目標の位置づけ間違いerotic target location error」と呼んでいる。よって、女性に性的に惹かれる男性にエロティックな目標の位置づけ間違いが起こることでオートガイネフィリアが成立する、と考えられるのである。
 しかし、ここでも、「自分の身体を自分が欲望する対象に変えたいと望む」現象がなぜ起きるのか、その理由は説明されていない。この問題に関するヒントとなるものが、オートガイネフィリア的感覚を「なるbe」と「もつhave」の対比として説明する語りのなかにあるかもしれない。例えば、ローレンスは次のような語りを引用している。

私は自分が惹かれる女になりたいbe a woman のであって、惹かれる女を自分のものにしたいhave a woman のではありません。(112)

 ブランチャードもまた、ローレンスの収集した語りについて言及する際に、「なる」と「もつ」をもちいてオートガイネフィリアを説明している。

女をもつhaveことに対する切望と女になるbeことに対する切望の融合 fusion—欲望と羨望の誤った結合 confounding of desire and envy—オートガイネフィリア者との臨床的面談でしばしば明らかであるものが、この発言によって代表的に示されている。(Blanchard 2005: 440)

 このような、「なる」と「もつ」の関係は、精神分析でも現れる。ただし、オートガイネフィリアが欲望の対象としての女を「もつ」ことから女に「なる」ことへの移行として説明されるのとは反対に、精神分析では対象に「なる」ことの不可能性がその対象を「もつ」ことを可能にする(Hsu 2019: 60)。おそらく、エロティックな目標の位置づけ間違いという概念は、オートガイネフィリアの理論が精神分析にもっとも接近する部分である。


11.3. 性指向のヴァリエーションとしてのオートガイネフィリア

 ペドフィリア小児性愛)やズーフィリア(動物性愛)がノーマルでない対象を指向するパラフィリアであるのと同様に、オートガイネフィリアは「女性になった自分自身」というノーマルでない対象を指向するものと考えられる。このような性的欲望の対象の「異常」は、性指向(何を性愛の対象とするか)のヴァリエーションと考えることもできる。
 性的異常のなかで、このようなノーマルでない対象への性指向に相当するものを性対象倒錯inversionと呼び、それに対して、ノーマルでない性行動のみを求める場合(マゾヒズムサディズム、窃視症と露出症など)を性目標倒錯perversionと呼ぶことがある。DSM-5の「パラフィリア障害群」は、基本的にはこの性対象倒錯(同性愛を除く)と性目標倒錯を網羅したものであり、この分類に従えば、オートガイネフィリアは性対象倒錯の一種と考えられる。
 このことから、ブランチャードは「オートガイネフィリアは、パラフィリアよりも指向として特徴づけられた方がよいかもしれない」と述べている(23)。また、ローレンス自身も、オートガイネフィリアを性指向、具体的には男性の異性愛の変異型として説明すべきだと主張している(204−205)。性指向の多様性(例えば、同性愛)は、少なくとも西洋諸国ではよく理解されているため、性指向として説明することで、オートガイネフィリアに対する社会的な理解を促進する可能性があるというのだ。
 ここで、パラフィリアparaphiliaと同じく、「フィリア-philia」という接尾語が付く用語について触れておこう。近年、異性愛や同性愛といった当人の性を参照した用語に代わって、当人の性に関係なく、男性を性愛の対象とするものには男性愛androphilia、女性を性愛の対象とするものには女性愛gynephiliaという用語がそれぞれ当てられることがある(9)。これらの用語はDSM-5にも記載されている—ただし、日本語版ではそれぞれ「男性嗜好」「女性嗜好」と訳されている(アメリカ精神医学会 2013: 448)。オートガイネフィリアautogynephiliaとは、女性愛gynephiliaが他人の身体ではなく自己autoの身体に向けられたもの、という意味である。この意味で、オートガイネフィリアの日本語訳としてはDSM-5の「自己女性化愛好症」よりもDSM-IV-TRの「自己女性化性愛」の方がブランチャードのニュアンスに近い。さらに、子供を性愛の対象とするペドフィリアpedophiliaに対して、成人を性愛の対象とする場合をテレイオフィリアteleiophiliaと呼ぶこともある。
 このように、-philiaという接尾語が付く用語が、ノーマルでない性指向、すなわちパラフィリアだけでなく、ノーマルな性指向を意味するものにも使用される傾向にあるのだ。この傾向は社会的な性指向の相対化を反映したものであるかもしれない。しかし、このような相対化は「生得的な女における性的マゾヒズム以外のあらゆる種類のパラフィリア的興奮は非常に珍しい」(176)という男女間の非対称性の問題を隠蔽、あるいは無視しているのではないだろうか。


12. オートガイネフィリア者と男性との性的関係

 オートガイネフィリアが性指向の一種、それも女性愛の変異型であるとすれば、オートガイネフィリア者は男性を性愛の対象としないはずであり、男性と本物の恋愛関係になることもないはずである。この点においては、通俗的な理解と、オートガイネフィリアの提唱者たちの見解とは完全に一致している。
 例えば、オートガイネフィリア者には男とセックスする空想がよく見られるが、このような男性を性愛の対象としているように見える状態もまた、オートガイネフィリア的な空想の現れとして説明できる。すなわち、そのような空想で実際に重要なのは、男性パートナーに対する性的興奮ではなく、男性パートナーから自分を女性として認められることに対する性的興奮なのである。このため、オートガイネフィリア者に見られる男とのセックスする空想のなかで、男性パートナーは顔のない人物、あるいは曖昧な人物として想起される場合が多く(130−131)、たとえこのような空想をもっていたとしても、オートガイネフィリア者が現実に男性に性的に惹かれたり、男性と実際の恋愛関係になることは少ないのだ(131−133)。
 それでも、性別移行によって自分の性指向が変わった—移行前は女性を対象としていたが、移行をはじめてからは男性を対象とするものへ変わった—と主張する非同性愛的MtFトランスセクシュアルが実際には数多く存在する。このような主張に対して、ローレンスは、「男性における性指向は、おそらく、成人期には本質的に変更不可能なものである」と考えられ、そのような性指向の変化は「オートガイネフィリア的願望のより強い表現に相当するにすぎない」と反論する(135)。
 また、「本当ははじめからずっと男に惹かれていた(あるいは、とても惹かれるよう運命づけられていた)が、社会のホモフォビア的homophobic 価値観を内面化していたために、男に対する魅了を抑圧していただけだった」(136)という主張に対しては、次のように反論している。

この「内面化されたホモフォビアによる男に対する魅了の抑圧」という説明は、同様に社会のいたるところからもたらされるホモフォビア的メッセージに曝されている、大部分の同性愛的MtF トランスセクシュアルと他の同性愛の男性が、青年期あるいは成人期の初期に、たとえただちにその感覚を行動に移さなくとも、自らの本物の男に対する性的魅了に何らかの形で気づいている、という事実を説明できない。(137)

 ローレンスは、さらに、非同性愛的MtFトランスセクシュアルがこのような主張をする背景には、自分を「古典的」トランスセクシュアルのパターンに当てはめたいという心理が働いているからだ、とも述べている(137)。
 それでも、この本には特殊な性行為によって男性パートナーとの関係を保持する非同性愛的(つまりはオートガイネフィリア的)MtFトランスセクシュアル、ミズ・Yの実例が記述されている(132−133)。ローレンスがこの実例を記述したのは、性行為の特殊性(男性パートナーの顔を見ないで行うフェラチオ)からミズ・Yの性指向が真の男性愛ではないことを説明するためであったと思われる。しかし、ローレンスの意図とは逆に、この例を、オートガイネフィリア者で真の男性愛がない場合でも、何らかの工夫によって男性との性的関係を保つことができることの実例と考えることもできるのではないだろうか。
 また、ローレンスらの性指向の解釈についてもやや疑問が残る。彼らはオートガイネフィリア者の男性愛のようなものの複雑な成立過程を説明しているのに比べて、「真の」男性愛を「男性の体つきに対する本物の魅了」(16)と想定することは素朴すぎないだろうか。少なくとも精神分析的な観点に立てば、あらゆるセクシュアリティについて性指向の成立過程は明らかにされるべきであり、オートガイネフィリア者の性指向もそれらの成立過程との比較のなかで理解されるべきである。


13. その他のオートガイネフィリアの特徴

 以上、オートガイネフィリアについての通俗的な理解とローレンスの著書の内容とを比較し、オートガイネフィリアの提唱者たちがオートガイネフィリアについて実際に述べていることを紹介してきた。次に、もとのオートガイネフィリアの理論のなかで、一般にはあまり知られていない、すなわち通俗的な理解ではあまり触れられていない特徴をいくつか紹介しておこう。


13.1. オートガイネフィリアの4つのタイプ

 ブランチャードは、オートガイネフィリアには4つの主要なタイプがある、と述べていた。

すなわち、女性の生理学的機能(例えば、妊娠、乳汁分泌、月経、など)に関係する生理学的physiologic なもの、ステレオタイプ的な女性的行動を行うことに関係する行動的behavioralなもの、女性の解剖学的特徴をもつことに関係する解剖学的anatomicなもの、女の衣服を着ることに関係するトランスヴェスティズム的transvesticなもの、これら四つである。(19)

 これらは互いに排他的なものではなく、ひとつの行動が同時に複数のタイプに分類できることもある(95)。これらの分類に関して、もっとも興味深いのは次の3点であろう。
 第一に、ほとんどすべてのオートガイネフィリア者が、トランスヴェスティズム的オートガイネフィリアを経験していること(96)。
 第二に、解剖学的オートガイネフィリアが、強い性別違和や身体の修正に対する関心ともっとも強い関連がある可能性があること(22−23)。
 第三に、生理学的オートガイネフィリアの有症率がもっとも低いこと(105)。
 この本のなかでは、その原因についての言及はないが、これら3つの特徴からは、オートガイネフィリアが自己の視覚像、すなわちイメージと強い関係をもっていることが示唆されている。この問題もまた、オートガイネフィリアと精神分析(とくにラカン鏡像段階)を結びつける可能性があるものである。


13.2. オートガイネフィリアの有症率と社会的個人主義

 ローレンスは、MtFトランスセクシュアルの主要なタイプが、西洋諸国では非同性愛的(すなわちオートガイネフィリア的)なものであるのに対して、アジア文化圏では同性愛的なものである、と述べ、この違いは社会的個人主義の影響の強さによるのではないかという仮説を提示している。

この論文で、私は、アジア文化圏のMtF トランスセクシュアルはほとんどすべてが同性愛的であったのに対し、アメリカ、カナダ、イギリスのMtF トランスセクシュアルはほとんどが非同性愛的であった、という調査結果を説明しようと試みた。私は、社会的個人主義societal individualism—文化が、その構成員が他者の意見にかかわらず幸福と自己表現を追求することを許容する程度—が、非同性愛的MtF トランスセクシュアリズムの相対的有症率の違いのほとんどを説明している、ということを証明した。(28)

 すなわち、オートガイネフィリア者が性別適合を受けることは、個人主義的な西洋諸国の方が、集団主義的なアジア文化圏よりも容易である、というわけである。
 しかし、この仮説にはいくつか疑問点がある。
 第一に、これは非同性愛的MtFトランスセクシュアルの文化的な表面化しやすさの違いを説明しているだけで、表面化していないものも含めた「実際の」有症率はこれだけではわからないのではないか。
 第二に、日本在住の私から見て、日本にも異性愛MtFトランスセクシュアルは相当数いると思われるが、このことはどう考えられるのだろうか。例えば、佐々木掌子は、自らが日本で行った調査の結果として、「トランス女性で男性に魅力を感じていたのは、42.8%(“男性だけ”と“ほぼ男性”の合計)であった」と述べている(佐々木 2017: 123)。単純に考えれば、ここからは過半数のトランス女性が「非同性愛的」であったことになる(ただし、佐々木による「トランス女性」の定義とローレンスによる「MtFトランスセクシュアル」の定義が微妙に異なるため、厳密な比較ではない)。日本はアジア文化圏のなかでは社会的個人主義の影響が比較的強い地域であると考えるべきなのだろうか? その可能性も否定はできないが、私はむしろ、ローレンスのこの仮説には、彼女自身のアジアに対する偏見オリエンタリズム—が影響している可能性もあると考えている。


13.3. 強制的女性化の空想

 オートガイネフィリア者には、女性になることを強制される空想がよく見られる。ローレンスはこの現象を強制的女性化の空想forced feminization fantasyと呼んでおり、この本のなかにも、そのような空想について記述した語りが数カ所で引用されている。
 なぜ女性化は強制されなければならないのか、あるいは、強制されることによって女性化がより強い性的な興奮を引き起こすのはなぜなのか。ローレンスは強制的女性化が性的マゾヒズム—これもまたMtFトランスセクシュアル(ただし、同性愛的、非同性愛的を問わない)によく見られる(152)—と関係することを指摘し、女性化もまた辱めの一種なのだと解釈している。そして女性化が辱めとして機能する理由について、次のように述べている。

私たちは、実際に、女性化すること—女になること—を恥ずかしく、屈辱的であると考えているのだ。私たちは、明確なものであれ暗黙のものであれ、女は劣っているというメッセージを—知り合いの男の子や男から、そして広く社会から—途絶えることなく受け取りつづけて成長するのだ。私たちはこのメッセージを信じ、内面化していた。今や自分が本当に女になりたいと欲望しているとしても、女になるという考えは大いに屈辱的なものであると考えてしまう。おそらく、私たちは、ある程度まで、つねにそのように感じてしまうのだ。これが、おそらくは、強制的女性化が私たちの多くにとってマゾヒズム的なエロティックな空想として機能しつづける理由であり、それは私たちが性別適合を完了してからも何年も、あるいは何十年もつづく。私たちは、この恥を完全に乗り越えることが、けっしてできないのだ。(154)

 しかし、ローレンスは非同性愛的MtFトランスセクシュアルの性指向が変化したとする主張に次のように反論していたはずである。

この「内面化されたホモフォビアによる男に対する魅了の抑圧」という説明は、同様に社会のいたるところからもたらされるホモフォビア的メッセージに曝されている、大部分の同性愛的MtF トランスセクシュアルと他の同性愛の男性が、青年期あるいは成人期の初期に、たとえただちにその感覚を行動に移さなくとも、自らの本物の男に対する性的魅了に何らかの形で気づいている、という事実を説明できない。(137)

 社会的な「メッセージの内面化」の影響について、ローレンスは一冊の本のなかで真逆の評価を下してはいないだろうか? それともホモフォビア(同性愛嫌悪)の内面化よりもミソジニー(女性蔑視)の内面化の方が個人のセクシュアリティに与える影響が大きいという根拠があるのだろうか? これらの「内面化されたメッセージ」に関する箇所について、ローレンスの解釈は説得力を欠いているように思われる。
 私は、強制的女性化において重要なのは、「内面化されたメッセージ」よりも「女性化を強制する『何者か』が存在すること」の方ではないかと考えている。このような「何者か」が、マゾヒズムにおいては虐待者として、迫害妄想では迫害者として姿を現す。強制的女性化の空想はマゾヒズム(倒錯)の現れなのか、それとも迫害妄想(精神病)の現れなのか—この問題もまた、精神分析との接点になるはずである。


13.4. パラフィリアの代替

 投稿された語りのなかに、自分が家畜になって解体されるというエロティックな空想が、女性性器をもつという空想に変化したと述べるものがあり、ローレンスはこの語りについて次のようにコメントしている。

この情報提供者の空想の発展は、興味深い現象の例を提供している。その現象とは、とても苦痛な、あるいは自我異和的なego-dystonic パラフィリア的空想が、ときに、より苦痛が少なく、より受け入れやすいものに取って変わられる、というものである。女性の外性器をもつというパラフィリア的空想は、解体されるというパラフィリア的空想よりも、間違いなく、その情報提供者にとって受け入れやすいものと感じられていた。(152−153)

 ローレンスはこのような現象を「パラフィリアの代替paraphilic substitution」と名づけ、別の箇所でも同じような現象を記述した語りを引用している(192−194)。実は、私自身がこれとかなり類似した現象を経験しているのだが、私はまだこの本以外でこの現象に言及したものを知らない。
 ローレンスは、この現象を、オートガイネフィリアが他のパラフィリアと併発することの例として取り上げているようだが—パラフィリアは併発する傾向にある(20)—それが「より受け入れやすいものに取って代られる」理由はとくに説明していない。
 私はここに、精神分析のなかでももっとも論争的な概念、死の欲動Todes Triebの出現があるのではないかと考えている。致死的な空想が性的な(オートガイネフィリア的な)空想に取って代られることは、死の欲動の剥き出しの出現に対して生の欲動Lebens TriebとしてエロスErosが抵抗することに相当するのではないだろうか。いずれにしても、この現象についてはさらなる研究が必要であろう。


13.5. ケイト・ボーンスタインへの言及

 ケイト・ボーンスタインKate Bornsteinは、アメリカの代表的なMtFトランスジェンダーの活動家であり、その著書Gender Outlaw: On Men, Women, and the Rest of Us (Vintage Books, 1995) は日本語にも訳され、『隠されたジェンダー』として出版されている(ボーンスタイン 2007)。ボーンスタインおよび『隠されたジェンダー』は、日本でもジェンダー論やクィアスタディーズの領野では比較的有名である。日本における『隠されたジェンダー』への一般的な評価は、例えば、次のようなものだろう。

トランスジェンダーが典型的「女」「男」像に回収されることに対し毅然と反旗を翻した、極めて重要な記念碑的著作です。(森山 2017: 215)

 しかし、『隠されたジェンダー』のなかに、ボーンスタイン自身のオートガイネフィリアを記述した箇所があることは、おそらく、あまり注目されていない。ローレンスはその箇所を取り上げて、次のように述べている。

SRS を受けた非同性愛的MtF トランスセクシュアルであるボーンスタイン(Bornstein, 1995)〔ボーンスタイン 2007〕は、自伝的エッセーのなかで、異性愛の異性装者向けに書かれたエロ小説を繰り返し引用し、「私はその手のエロ雑誌から縁を切ったことがないし、小さなコレクションにもしている」と打ち明けていた(p. 232)〔ボーンスタイン 2007: 245〕。ボーンスタインは、SRS を受けてから7 年後も、自分自身が女性であるというイメージによって興奮しつづけている、とも述べていた。

七年たって、何かわかった? 今でもスリルを味わっている。鏡の中の私を見て、男の子でなく女の子が見えるとき。(p. 238)〔ボーンスタイン 2007: 254〕(32−33)

 

 さらに、ローレンスはオートガイネフィリア的トランスセクシュアリズムに対する恥ずかしさを軽減する方法のひとつとして、オートガイネフィリア的トランスセクシュアリズムのロールモデルとなりうる有名人が現れることを提案し、そのような有名人の候補としてボーンスタインを指名している。

第二に、数人のカリスマ的で魅力的な、あるいは目立つMtF トランスセクシュアルが、非謝罪的にオートガイネフィリアであるとカミングアウトし、残りの私たちrest of us 〔ボーンスタインの著書のサブタイトルに掛けた表現〕のためのロールモデルとして機能することが役に立つかもしれない。ケイト・ボーンスタインのような名の知れた人物なら、完全にそのような役割を果たすことができるだろうが、ボーンスタインがオートガイネフィリアを自認しているかどうか、私にはまったくわからない。(204)


14. 結論

 ここまで、ローレンスがこの本のなかで述べたオートガイネフィリアについての情報を、やや詳細に説明してきた。この本がオートガイネフィリアについて理解するために欠かせない一冊となることは間違いない。この本がきっかけとなって、この現象に学術的な関心が集まることを期待している。
 ただし、本文中でもいくつか疑問を提示しておいたように、私自身はローレンスやブランチャードの理論に全面的に賛同しているわけではない。
 それでも、私は、彼らがオートガイネフィリアという現象について記述した内容が有用なものであることは認めている。オートガイネフィリア者たちは今以上の支援を必要としており、そのためには何より自分の症状について説明してくれる情報が必要だという点についても、大いに同意するところである。この本のなかで、ローレンスがこれほど多くの情報提供者(トランスセクシュアルの情報提供者だけで249人にのぼる)による語りを引用し、オートガイネフィリアについて詳細に説明したのは、オートガイネフィリア者が自分の人生についてよりよい決断を下せるように、そして臨床家たちがオートガイネフィリア者によりよい支援を提供できるように、彼らに必要な情報を与えるためだったのだ。
 それゆえに、現在主流となっている性的少数者の脱病理化の主張は、ローレンスにとっては、オートガイネフィリア者の人生の困難や支援の必要性を隠蔽するものに感じられるのだろう。現に、MtFトランスジェンダーの活動家のなかには、ディアドリー・マクロスキーDeirdre McCloskeyのように、オートガイネフィリアの存在自体を認めない者さえいるのだ(33−34)。たしかに、オートガイネフィリアを否認することで、恥の感覚に悩まされることがなくなり、トランスセクシュアルとして周囲からも「正しく」スムーズ理解してもられるかもしれない—このことは、ローレンス自身も否定してはいない(207−208)。しかし、本当にそれでよいのだろうか? ローレンスは、このような脱病理化の流れを痛烈に批判している。

私は、精神療法的観点から、クライエントの精神病理学的経験を承認すること(および関連する恥とスティグマの問題に取り組むこと)は、最終的には、本物の精神病理的な状態を「脱病理化depathologize」することよりも、より強力で効果的な介入になる、と主張したい。(62)

 しかし、ローレンスにとって、オートガイネフィリアはある意味で「病理」を越えたものである。このことは、この本のラストで、1984年の映画Heartbreakersに言及しながら、オートガイネフィリア者の人生を「アート」として説明する箇所で、威厳をもって、克明に述べられている。

それは、自分が知っている一番強い感覚、そして自分が知っている一番強力なイメージのまわりに自らのアート—自らの人生—を築き上げることである。私たちオートガイネフィリア的トランスセクシュアルのほとんどにとって、自分が知っている一番強い感覚と自分が知っている一番強力なイメージは、自分自身が女であることに関するものだ。性別適合を受け、女として生きることを選んだとき、私たちはその感覚とイメージを讃え、自らの人生の中心にそのための場所を与えるのだ。(217−218

 ローレンスは、オートガイネフィリアが病理であることをこの本のなかで繰り返し主張する一方で、最後にはそれ自体が人生であり、人生をかけたアートであると述べているのだが、私はこの二つの主張が矛盾しているとは思わない。むしろ、ひとり一人の人生を病理的なものも含めて尊厳をもって受け止めることは可能なはずである。私たちに求められていることは、特定のアイデンティティの「脱病理化」ではなく、病理的なものを理由に人から尊厳を奪うような社会のあり方を変えることなのではないだろうか。


参考文献