前提的問題について

精神分析とトランスジェンダーに関連する文献等を紹介します。

精神病としてのトランスセクシュアリズム:『妄想はなぜ必要か——ラカン派の精神病臨床』

はじめに

 この投稿は、コンタルドカリガリスの著書、『妄想はなぜ必要かラカン派の精神病臨床』(岩波書店、2008年)における、トランスセクシュアリズム(性転換症)への言及を紹介するものです。
 〔 〕内は私が補足したものです。
 傍点による強調は太字で示しています。
 文献を指定しない( )内の数字は『妄想はなぜ必要かラカン派の精神病臨床』からのページ番号を示しています。

 

1. 基本情報

1.1. 書籍

 カリガリス、コンタルド(2008)『妄想はなぜ必要かラカン派の精神病臨床』(小出浩之、西尾彰泰訳)、東京:岩波書店
 ISBN 978-4-00-025302-4
 出版社書籍紹介ページ:https://www.iwanami.co.jp/book/b261031.html
 原著(フランス語):Calligaris, Contardo (1991). Pour une Clinique Différentielle des Psychoses. Paris: Point Hors Ligne.

1.2. 著者

 著者のコンタルドカリガリスContardo Calligarisは、イタリア出身、フランスで精神分析家となり、のちにブラジルに渡って活躍している(訳者あとがき)。2021年、死去。
 2018年8月15日、来日(京都大学人文科学研究所 » 立木康介教授–Professor TSUIKI, Kosuke業績:http://www.zinbun.kyoto-u.ac.jp/zinbun/members/private/tsuiki_list.htm)。

1.3. 訳者

 小出浩之は岐阜大学医学部教授(精神医学)であり、ジャック・ラカンセミネールをはじめ、ラカン精神分析に関連する書籍の翻訳に数多く携わっている(奥付)。
 西尾彰泰は岐阜大学非常勤講師としても勤務する精神科医(奥付)。現在(2020年6月)、岐阜大学保健管理センター教授。

2. この本の概要

 この本、『妄想はなぜ必要か』は、著者、カリガリスによる特別講義の口述筆記をもとに書かれたものであり(まえがき)、ラカン精神分析における精神病の治療について、主に著者自身が担当した症例を数多く交えながら解説したものである。
 それらの症例のなかには、本書冒頭の驚くべき生活史の男(2−9)や、ラステニー・ドゥ・フェルジョル(自分で自分の血液を抜くために起こる重症貧血)(194−196)のような一見極端で珍しく思われるもの、そして、ひとつの症例についての詳細な検討(131−155)も含まれている。
 著者、カリガリスは精神病の治療に対して、ある一貫したスタンスをとっている。それは、精神病の治療とは、精神病者が成功した妄想の構築を行うことであり、治療者は妄想の構築を支援すべきである、というものだ。「病相期における精神病者の分析作業を通して、成功した妄想を首尾よく構成することこそ、まず私たちが手をつけることのできる治療の方法なのだと、私は考えています」(83)。
 このような考え方は、フロイトの「私たちが病気の産物と考えるもの、すなわち、妄想形成は、実際には、回復の試みであり、再構築なのである」(フロイト 2015: 127)という考えとも一致するものであり、統合失調症は解体型よりも妄想型の方が予後がよい、というよく知られた経験的実感(例えば、統合失調症ナビ » 3つの病型:https://www.mental-navi.net/togoshicchosho/understand/disease/)とも一致する。〈父の名〉による父性隠喩が成立している神経症者とは異なり、〈父の名〉が排除され、父性隠喩が成立しえない精神病患者にとって、妄想の構築による妄想性隠喩こそが、父性隠喩の代理として、世界との関わりを保ち、その他のより重篤な症状に至ることを防いでいるのだ。
 しかし、実際には、治療者がこれとはまったく逆の姿勢で治療に臨んでしまうことも少なくない。すなわち、精神病の患者から妄想を取り除いて「正常化」しようとするのである。著者は「精神病患者を診ると、患者を正常化してやろうという誘惑から逃れられなくなってしまうのはなぜでしょうか」と問いかけ、この問題について検討している(159−161)。
 この他にも、発病前の精神病者の精神構造(1−44)、精神病の3類型(スキゾフレニー、パラノイア、躁うつ(精神)病)と神経症の3類型(ヒステリー、強迫症、恐怖症)とのあいだの関係性についての著者独自の理論(76−90)、強制入院や自殺の問題(167−171)、分析の終結についての考察(172−177)など、実践的で興味深い議論がいくつも収録されている。
 ただし、この本の日本語版には翻訳上の問題があると指摘されていることも付け加えておく(フロイトの不思議のメモ帳 » 2009年5月 7日(木)、カリガリス著『妄想はなぜ必要か』:http://freudien.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-042d.html)。

3. この本を紹介する理由

 私がこの本を取り上げたのは、著者がトランスセクシュアリズム—この本では「性転換症」と表記されている—は精神病の一種である、と明確に述べているからである。
 精神病とは、大まかに言えば統合失調症と内因性うつ病躁うつ病—この本では「躁うつ(精神)病」と呼ばれ、神経症性の抑うつ状態と区別されている(63)—を合わせたカテゴリーであり、この定義はラカン派とその他の精神医学でほぼ共通している。
 ただし、ラカン派では、すべての人は精神病、神経症、倒錯のいずれかの精神構造をもっていると考えられる。健康な状態とは無症状の(症状の目立たない)状態にすぎず、カテゴリーとしての「健康」は存在しない。また、「境界例」のような3つの診断の中間の状態も存在しない。それでも、同一の(一見よく似た)症状が異なる構造から帰結する可能性があるので、その診断は慎重に行う必要がある。
 以上のようなラカン派独自の観点を考慮しても、性転換症が精神病の一種であるという見解は、やはりショッキングである。このような見解は、なによりも、トランスジェンダー(性転換症もその一部と考えられる)を病とみなすものであり、現代の主流となっている性の多様性という観点と対立しているように思われる。また、どの診断にも重症と軽症、さらには無症状の状態があるとしても、精神病が神経症神経症者とは「普通の人」、つまりは「(精神的に)健康な者」の別名である)より重傷である可能性が高いことに変わりはない。性転換症とは、そのような重い病なのだろうか?
 私は、自分の経験も考慮して、以下のような仮説を立てている。すなわち、トランスジェンダーの人々なかには、精神的な困難を抱える人が数多くいるが、その困難が当人の精神病構造に起因する場合が相当数存在するのではないか。また、性の多様性の言説は、性的少数者の社会的な権利の拡大という点では大いに意味のあることだが、その一方で、上記のような精神的な困難を見えにくくしているのではないか。さらに、性転換症を含む性的少数者の社会的権利を拡大しつつ、彼らの性と密接に結びついた病—私は性自体が病であるとすら考えているのだ—に対して目を閉ざすことなく、その病に由来する困難に対して正面から支援を行うことも可能なのではないか。
 私は、性転換症と精神病の関係を真剣に検討する方が、結果的に、トランスジェンダーの人々の権利を拡大し、彼らに対する支援をよりよいものにすることにつながると考えている。そのための議論のきっかけとして、ラカン派の基本的な知識は必要であるが、比較的平易な日本語で書かれたこの本を紹介することが有益であろうと考えた。ここでは、著者が性転換症に言及している箇所を中心に紹介する。

4. 性転換症への言及

 この本のなかで、著者は3箇所で性転換症に言及している。その3箇所を以下に引用する。
 最初の箇所は、「妄想的隠喩における性別化された意味作用」と題されたセクションの冒頭の部分である。この部分は、ラカン派が性転換症をどのように理解しているかを端的に述べたものであり、外科手術についての大胆な提言もある。

重要なことは、次の二つのことを理解することです。ひとつは、この父の機能が〈現実界〉に回帰するとはどういうことか、もう一つは妄想性隠喩を構成しようとする努力は何なのかということです。このような点について、私は精神病的な性転換症を範例とするのがいいと考えています。精神病的といったのは、性転換の手術を強く求める神経症者もまた存在するからです。
 性転換手術を求められた医者は、たいていの場合、患者が精神病であるか否かを確かめた後に、一般的に、精神病者に対しては手術を拒絶し、神経症者には手術を認めていることに、私は大変驚いています。逆でなければならないと、私は考えています。私に言わせれば、精神病者には手術を認めて、神経症者に対しては拒否しなければなりません。なぜなら性転換症こそ、成功した妄想を絵に描いたようなものだからです。性転換手術、つまり性を転換するために行われる外科的手術は、男から女へであろうと女から男へであろうと、それ自身が成功した妄想のひとつの例なのですから(どちらかの方向への手術も全く同じ頻度であることは興味深いことです。一般に思われているのとは違って、どちらか一方だけが非常に多いということはないのです)。
 〔……〕精神病の性転換症の症例においては、神経症的な隠喩が〈現実界〉そのものにおいて生じるのです。精神病者は〈現実界〉に回帰した父の審級に対して男性か女性かという性別化を〈現実界〉において決めるよう要求されます。性転換手術は、この点から言えば神経症者の父の隠喩の「成功した」代理物ですが、しかしそれは、戸籍上の変更まで行った場合のことです。神経症者にとっては象徴的な系譜において獲得される性的な意味作用は、精神病者にとっては外科手術による性別化という形で獲得されるわけです。
 〔……〕もし、身体という〈現実界〉において、性の変更という形で問題を解決しなければ、私たちが妄想と呼んでいる隠喩の構築を試みなくてはならないでしょう。(50−51)

 第二の箇所は、パラノイアと体感幻覚の関連について論じる際に現れる。

ここでは体感幻覚というものについて述べておかなくてはなりません。体感幻覚は、幻聴以外の幻覚ですが、パラノイアにも出現しないわけではありません。どういうことでしょうか。成功した父の隠喩は、基本的には、主体を性別化することにより、主体に意味作用を与えてくれます。神経症的隠喩も性別化を与えてくれます。だから男と女が存在するのです。しかし、この性別かは疑似隠喩、つまり妄想的隠喩でもあります。ですから、父の隠喩の代用品を探すときに、すぐに役立つ方法は、性的な意味作用の代用品を探すことです。主体は成功した妄想的隠喩を構成せよと要求しますが、それは一般的に性別化の要求です。性別化は、神経症的な隠喩、つまり父の隠喩に特有のものです。それこそが、一般的にすべての神経症の主体が父に期待しているものです。だから、先ほど性転換症transsexualismeを精神病の典型的な症例としてお話ししたのです。何しろ、性転換症は妄想の問いそのものを〈現実界〉において解こうとするからです。
 ですから、パラノイアにおける体感幻覚は幻聴以外の幻覚というより、むしろ「幻聴」のようなものだと考えられます。彼らの体感幻覚は、父による〈現実界〉の性別化、父の声の効果だからです。彼らの体感幻覚は、主体の性の変化という観点から考察されなければなりません。(87−88)

 第三の箇所は、マリオ・コルソによる詳細な症例報告の後、その症例についての討論のなかに現れる。この症例では、治療者がバカンスで旅行に行く日に患者が自殺を試みており、このコメントはその(自殺企図という)行為への移行に言及したものである。

〔C・カリガリス〕この症例では、もっと重要なことがあります。妄想的隠喩を構築することができなかったという意味で、妄想が成功しなかったわけではありません。妄想は成功しているのです。しかしそれは耐え難いのです。患者の妄想は(パラノイアとして)成功していますが、父によって要請される代価が耐え難いのです。性転換症の人が外科手術を行うまでに至るのも同じです。妄想が耐え難いかどうかは、患者自身の感じ方によります。(154)

5. 精神病の症状としての性転換症

 これらの言及は、性転換症が精神病の症状のひとつである、という前提にもとづくものである。このような前提は、近年の主流となっているトランスジェンダーの脱病理化の主張だけでなく、性別違和と精神病性の妄想を鑑別できるとする、DSM-5などに見られる主要な精神医学の主張とも対立しているように見える。例えばDSM-5では次のように述べられている。

統合失調症および精神病性障害統合失調症においては、別の性別に属しているという妄想がまれに存在することがある。精神病症状が存在しない場合は、性別違和の人による「私は別のジェンダーに属している」という主張は妄想とはみなされない。統合失調症(または、その他の精神病性障害)と性別違和が同時に存在してもよい。(アメリカ精神医学会 2013: 450−451)

 しかし、このような対立が実際には表面的なものにすぎないことが、上記の言及から理解できるだろう。「性転換手術、つまり性を転換するために行われる外科的手術は、男から女へであろうと女から男へであろうと、それ自身が成功した妄想のひとつの例なのですから」(50)という指摘は、性転換症が、フロイトの言葉を借りれば、成功した「回復の試み」(フロイト 2015: 127)である、ということを示唆するものである。
 回復の試みが成功したということは、性転換の要求以外の症状(妄想や幻覚)が抑えられ、病状が安定することを意味している。すなわち、「もし、身体という〈現実界〉において、性の変更という形で問題を解決しなければ、私たちが妄想と呼んでいる隠喩の構築を試みなくてはならないでしょう」(51)ということは、性の変更という形の解決がなされれば妄想の構築は必要ない、というわけである。
 また、第二の箇所では、性転換症は「精神病の典型的な症例」である、と断定的に述べられている。これは間違いなく、ラカンが精神病について論じるなかで、50年代には「女性化」を、70年代には「女−なるもの−への−駆り立て」を提唱し、精神病と「女になること」との関係を理論化しつづけていたことを踏まえたものである。
 さらに、ラカンシュレーバー症例を中心として精神病についての理論を構築する際に、実際に性転換症の患者(症例アンリ)を診ていたことを踏まえている可能性もある。ラカンと症例アンリの経緯についてはゲローヴィチによる解説が参考になる(Gherovici 2010: 151−166)。

6. 性転換症の治療

 最初の箇所で、著者は性転換手術のような外科的な治療にも肯定的な見解を示している。精神病の治療について、著者は患者が妄想を構築するのを支援すべきであるというスタンスを取っている、と先に述べた。このようなスタンスにもとづけば、外科的な治療もまた性を変えるという「妄想」(成功した回復の試み)の構築を支援する手段のひとつと考えることができる。
 著者は、医師が一般に神経症者に対しては手術を認め、精神病者に対しては拒否することに、逆でなければならない、と反論している(50)。それでは、性の変更の妄想が成功した回復の試みとして他の精神病的な症状を防ぐのだとしたら、そのような「症状のない」精神病者神経症者とをどう見分けるのだろうか? この問いに対しては、著者が精神病者の発症前の状態をかなり長く論じていたことからもわかるように、ラカン派では、明らかな症状がない場合でも、精神病であるかどうか鑑別できる、と考えられていることが答えになるかもしれない。
 また、著者が神経症者に対しては手術を拒否するべきだと考えている理由は何か? そして、神経症者が性転換手術を強く求めるのはどのような場合なのか? これらの問いに答えるためには、神経症者の性がどのように構成されているかを理解しなければならず、この本(およびこの文献紹介)で扱える範囲を大きく逸脱してしまう。しかし、ラカン派では神経症者の性について詳細な議論が行われていることは付け加えておく。例えば、代表的なものに「性別化の式」がある(ラカン 2019)。
 ただし、医師が実際に「患者が精神病であるか否かを確かめた後に、一般的に、精神病者に対しては手術を拒絶し、神経症者には手術を認めている」かどうか、私にはわからない。少なくとも日本のようなラカン派の影響がないところでは、ラカン派的な意味での精神病・神経症の鑑別診断は行われていないはずである。私の経験では、精神科的な症状が少ない方が性を変更する治療は受けやすい傾向にあると思われるが、その結果として、精神病の患者よりも神経症の患者の方が多く手術を認められている可能性はあるかもしれない。
 また、外科的な治療に対してラカン派の分析家がこのような肯定的見解を示すことは比較的珍しいことかもしれない。例えば、ミヨは性の変更を支援すること自体に否定的であるように見えるし(Millot 1990)、モレルもまた外科的な治療に対して否定的な見解を示している(Morel 2011: 189)。
 私自身も、ここでの著者の見解は大胆すぎる—実際には簡潔すぎるだけなのかもしれないが—と感じている。例えば、精神病で性転換手術を強く要求している症例であっても、外科手術が推奨されない場合は確実にあるだろう。
 また第三の箇所では、性転換手術と自殺企図のような行為への移行との関連がほのめかされる。これは、著者が外科手術を自殺のような苛烈な行動の一種と考えていることを示唆しているかもしれない。私自身は、ここで著者が述べていることは、トランスジェンダーの人々における自殺率の高さ(例えば、James, et al. 2016: 112−115を見よ)と関連があるかもしれない、と推測している。

7. この本における性転換症への言及はどれほど知られているのか?

 この本のなかの性転換症への言及はわずかではあるが、それらは性転換症が精神病の一種であると明確に述べた決定的なものである。それにもかかわらず、これらの言及はあまり注目されていないのではないだろうか。
 おそらく、この本の読者のほとんどが精神病理学精神分析に関心からこの本を手に取ったものと思われるが、性転換症は統合失調症や躁うつ精神病よりもずっと珍しいため、そのような読者がこれらの言及を実際的あるいは臨床的な問題と考える可能性は低いかもしれない。もし仮にトランスジェンダースタディーズやクィアスタディーズに関心のある読者がこの本を手に取ったとしても、これらの言及はトランスジェンダーを病理とみなす「古い」観点にもとづくものであるとして(原著の出版は1991年)注目されることなく片付けられてしまうかもしれない。
 また、たとえ注目されたとしても、ラカン派がトランスジェンダーに対して攻撃的、差別的であることの証拠として非難の対象とされてしまうかもしれない。しかし、私はそのような非難も見たことがない。
 そもそも、この本自体がほとんど知られていないのだろうし、精神分析自体—なかでもラカン—もまた日本ではほとんど知られていないのだ。

8. 結論

 ラカン精神分析は、その一見難解な理論から、哲学、思想、あるいはカルチュラル・スタディーズでは利用できても臨床実践では使えない、と考えられがちであるが、この本はラカン派が極めて臨床的、実践的なものであることを示してくれる。また、ラカン派の精神病者に対するスタンスが、精神病者ひとり一人の世界を尊重するものであることも、この本から理解できるだろう。妄想を取り除いて「正常化」することが治療のゴールではないのだ。
 ただし、この本のメインテーマは精神病、とくに妄想や幻覚をともなうよう症例の臨床であり、トランスジェンダー(具体的にはそのなかの性転換症)への言及はそのごく一部にすぎない。そのため、この本自体がトランスジェンダーについての議論の素材を直接提供しくれるわけではない。
 精神分析的なトランスジェンダーの臨床があるとすれば、それはどのようなものになるのか、この本のなかでの言及を足がかりとして、私たち自身で探求していく必要があるだろう。おそらくは、トランスジェンダーの人々のひとり一人の性のあり方を尊重する、極めて実践的な臨床が可能になるはずである。

参考文献

  • アメリカ精神医学会(2013)『DSM-5精神疾患の診断・統計マニュアル』(高橋三郎、大野裕監訳)、東京:医学書院。
  • フロイトジークムント(2015)『シュレーバー症例論』(金関猛訳)、東京:中央公論社
  • Gherovici, Patricia (2010). Please Select Your Gender: from the Invention of Hysteria to the Democratizing of Transgenderism. New York : Routledge.
  • James, S. E., Herman, J. L., Rankin, S., Keisling, M., Mottet, L., & Anafi, M. (2016). The Report of the 2015 U.S. Transgender Survey. Washington, DC: National Center for Transgender Equality. Retrieved from https://transequality.org/sites/default/files/docs/usts/USTS-Full-Report-Dec17.pdf
  • ラカン、ジャック(2019)『アンコールセミネール第XX巻』(藤田博史、片山文保訳)、東京:講談社
  • Millot, Catherine (1990). Horsexe: Essay on Transsexuality. New York: Autonomedia.
  • Morel, Geneviève (2011). Sexual Ambiguities: Sexuation and Psychoses. London: Karnac.