以前に当ブログで紹介した本Men Trapped In Men's Bodiesの著者であるアン・A・ローレンス博士が今年(2024年)後半になって2つの新しい小論を2本公開しました。この投稿では、前回の投稿に引き続き、そのうちのひとつで“Autogynephilia as Thought Crime”と題された小論の日本語訳を掲載します。翻訳は当ブログの管理人(私)によるものです。掲載にあたって、私が直接ローレンス博士に確認を取り、了承をいただきました。ローレンス博士には重ねて感謝申し上げます。ありがとうございました。
ローレンス博士はこの小論で、ヘレン・ジョイス氏とのあいだで起こった出来事をきっかけに、ジョイス氏を筆頭とするトランスジェンダーに批判的な運動transgender critical movementに潜む全体主義的傾向と道徳的腐敗を鋭く批判し、このような運動に加担しないよう呼びかけています。そしてトランスジェンダーに肯定的な運動transgender positive movementもまた、オートガイネフィリアを「思想犯罪」として扱う傾向に囚われていることを指摘しています。日本でも、トランスジェンダーに肯定的な運動が盛んになるにつれて、トランスジェンダーに批判的な運動による行動が表面化しつつあります。この小論は、先の“Autogynephilia at 35”と合わせて、今こそ真剣に読まれるべきだと思います。
英語原文のpdfファイルは下記のローレンス博士のウェブサイトで公開されています。
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思想犯罪としてのオートガイネフィリア
Autogynephilia as Thought Crime
アン・A・ローレンス、医学博士、博士
Anne A. Lawrence, MD, PhD
ほとんどの人々がこう言っています。これ[APG]は不運なセクシュアリティで、ご存じのように私はその他の点では善人で、あなたは同類ですが、隣人の服を盗もうとしている、そう、ヤるために……。これら[APG]の証言を読むときに動揺させられることは、彼らが女たちを女として見ておらず、女たちをラヴドールとして見ていて、それは一般に「シッシー化」についてであり、彼らが想像している……強制的女性化forced feminization、彼らはそのような一面的で、大変不快な方法で女について考えているのです。それを読む女の同類として、男たちはこんなふうに私たちを見下しているのだと考えてしまうのです。アン・ローレンスの本で私が覚えている箇所からの引用ですが、これは多くの男たちから彼[原文のまま]に送られてきたAGPとはどんなものかについての証言のひとつからのもので、女になることはとても屈辱的であり、屈辱はとてもセクシーだと言うのです。そこに至って、私の共感は消え去ってしまいました。同類、もしこれがその男にとって生まれつきのもので、もしそれがセクシュアリティでなら、私が嫌いな同類、私はそれについて知らない[知りたくない]し、公共のスペースにいてほしくありませんし、それに対していかなるスペースも与えたくないですし、それに対して、先ほど言ったとおりですが、少しも共感したいとは思いません。とにかく私はこれらの男たちが女のスペースにいてほしくないのです。立ち去って、女について身の毛もよだつことを考えるならどこか別の場所でやってください。どうもありがとう。——ヘレン・ジョイス
上記の引用はヘレン・ジョイスとのオンライン・インタビューから取られたもので(出典は後述)、彼女はトランスジェンダーに批判的な運動のもっとも著名な代弁者のひとりである。そのインタビューはAGPはパラフィリアであるとともに性指向でもあるかどうかについて議論することではじまった。当然のことだが、ジョイスはその考えを拒否した。しかしそのとき、インタビューはAPGのある人々の卑劣な本性、彼らの奇妙な性的空想、彼らが他人の服を盗みがちであるらしいことに対する怒りの暴言へと急変する。彼女がオートガイネフィリア的な性的空想でとりわけ動揺させられたのは、そこに想定されたミソジニーである。彼女は彼らが「女についての身の毛もよだつ考え」を表現していると主張し、それを思い出さなくてもいいように、AGPのようなものなど視界から消えてほしいと思っているようだ。
私にはジョイスに対する個人的な敵意などない。私の彼女に対するふるまいは友好的で、敬意あるものだった。私は彼女の知性と学者としての業績を高く評価しており、私たちが合意できる議題も多い。しかし、結果的に彼女がトランスジェンダーに批判的な運動の代表者となった以上、彼女のAGPに対する見解は、とりわけあのような彼女らしくない激しさと怒りをともなって表明されるのだから、大いに注目に値すると私は確信している。ジョイスは先に抜粋したインタビューで単に台本を外れて話し、意図せずして彼女の、そしてトランスジェンダーに批判的な運動の、ある一面を暴露してしまったのではないかと私は考えている。その一面は彼女がめったに人前で見せないものだ。
AGPは心の現象であり、直接観察することはできないはずだが、ではジョイスが、APGについて知りたくもないし、公共のスペースにいてほしくもないと言うときに意味しているものは何なのだろうか? 明確なことは、彼女の発言が意味しているのは、誰かがオートガイネフィリア的な考えをもっていると自分が信じることになるようなあらゆる事物と遭遇したくないということである。推測するに、ここには、彼女がオートガイネフィリアだと考えるあらゆる人物による、女性的なものとして記号化された外見や行動を人前で示すことや女性への自己同一化self-identificationを表明することのすべてが含まれている。ここでの権利についての感覚は驚くべきものだ。どうやらジョイスの理想とする世界では、おそらく脳内に潜んでいる「女についての身の毛もよだつ考え」を彼女に想像させるようなことならどんなものであっても、人前で行ったり言ったりすることが許されないかのようだ。APGのある人々は、彼女を動揺させないために、つねに「それを寝室にしまって」おかなければならない。自分が想像する他の人々の私的な性的思想の内容が耐えがたいと考えられるために、ジョイスは公共のスペースを取り締まりたいというのである。彼女にとって、AGPは根本的に思想犯罪であり、許しがたいものなのだ。
思想犯罪という用語は、ジョージ・オーウェルがディストピア小説『1984』のなかで提唱したものだ。それは、オーウェルによる架空の全体主義国家が容赦なく抑圧しようとする、受け入れがたい政治的思想や感覚のことである。ジョイスと彼女の支持者たちにとって、AGPは思想犯罪であり、AGPに関して、彼らはおそらく2024年を『1984』に似たものにしたいのだろう。トランスジェンダーに批判的な運動が全体主義的な願望をもっており、受け入れがたい私的な思考の存在の現れと考えられる人前での行動を管理したいと主張しているなどということがあるだろうかと疑っている人がいたとしても、先のジョイスの発言がそのような懐疑を一掃してくれるはずである。
ジョイスのような悲嘆にくれたフェミニストたちだけがAGPを思想犯罪とみなしているわけではないということを、ただちに付け加えておくべきだろう。トランスジェンダーの活動家たちの多くが同じように感じているのだ。彼らは男性における横断的性同一性cross-gender identityがときにオートガイネフィリア的な性的空想の結果であるという理論に激怒しており、AGPが存在したとしてもそれは無関係であると主張したり、それは通常の女性のセクシュアリティの現れにすぎないと言ってそれをこぎれいに見せかけようとしたりするほどである。彼らはその概念を真剣に受け止めているあらゆる人々に対して軽蔑をあらわにする。このことは、彼らがAGPの理論は本来的にトランスジェンダーの人々をスティグマ化し、病理化し、尊厳を傷つけると信じていることを反映している。対立勢力におけるフェミニストと同様に、これらのトランスジェンダー活動家たちは、オートガイネフィリア的な性的空想というパラフィリア的な考え方が、自分たちのなかにあるか他の人々のなかにあるかにかかわらず、身の毛もよだつものであるために認めたり許したりすることができないのだ。彼らは、AGPが現実に存在し、無関係な存在ではないと信じることを、そして自分自身のトランスジェンダー的な欲望や願望がオートガイネフィリア的なエロス的空想を反映していると信じることも、思想犯罪とみなしている。
ジョイスに戻れば、なぜ彼女はあれほど躍起になってAGPのある男性たちのミソジニーとされるものに注目するのだろうか? 彼女には彼らがAGPでない男性たちよりもミソジニー的であると信じる根拠があるのだろうか? オートガイネフィリアのある男性たちの女たちに対する態度は非常に肯定的である。彼らは女たちを愛し、理想化し、その美しさや生殖能力、そしてエロス的な力を羨んでいる。多くがミソジニー的態度を示していることもまた真実ではあるが、このことが物語の全体を構成するわけではなく、さらにいえば、その物語のほとんどがそうではない。私の意見では、AGPが思想犯罪とみなされる本当の理由はそれがミソジニー的だからではなく、それがつねに根底にある女性になりたいという願望の表出となっているからだ。このような力動は、レイ・ブランチャードやステファン・レヴィンのようなトランスジェンダーに批判的な学者たちには古くから認識されていたことだ。オートガイネフィリア的性別違和のある男性たちは女になることを空想するだけでなく、本当に女に、あるいはよい複写物になりたいのであり、真摯に努力すればそれが実際に可能であると信じるほどに向こう見ずである。これが、おそらくは、彼らの思想犯罪のなかでもっとも許しがたい側面なのである。
ジョイスのAGPに対する嫌悪は「共感が消え去ってしま」うほどに強烈で、彼女はまったく謝るそぶりも見せなかった。「ええ、それに対する共感などしたくもありません」。このように白状してしまうことは、ただごとではないと思われる。知的で、感受性のある人物が、苦痛となる性的空想を経験している人々に対する共感などあってはならないと感じてしまうのはなぜなのか? 人々は自分のエロス的指向を選ぶのではない。よって、誰かが問題を引き起こすような指向に憑りつかれているのなら、私たちは彼らに対する共感を呼び起こそうとすべきなのではないのだろうか? ジョイスはAGPのある人々に対して自分の心を硬化させることを選んだのであり、彼女に言葉を返すようであるが、これは、他の人々を彼らの私的なエロス的空想にもとづいて、あるいはその空想がどのようなものと想定されるかにもとづいて、悪魔のように扱うという道徳的に腐敗した結末を示していると私は考える。AGPのような思想犯罪の悪質さは人の想像力以外の制限を受けない。このことが、自分で彼らの私的な性的空想の内容だと決めつけたもののために、オートガイネフィリアがある人々は見下してもよい、共感する価値もないと考えることを容易にする。
トランスジェンダーに批判的な運動には全体主義的願望があり、卑劣な態度を推奨している。このことが、その支持者になるよう誘惑されているあらゆる人々を引き留めてくれるはずである。それはAGPのような思想犯罪を抑圧するという名目であらゆる人の性表現の自由を制限しようとしており、普通ではないが無害なエロス的空想を経験している人々に対して、硬直した狭隘な態度と共感をもたないことを推奨している。このような悪意ある力動が明らかになるやいなや、トランスジェンダーに批判的な運動はただちに影響力を失いはじめるだろう。ジョイスにはAGPについてのインタビューを続け、台本を外れつづけてもらいたい。彼女は自分が所属する運動についてもっと私たちに明らかにしなければならい。
(2024年11月)
下記URLから文字起こしされたヘレン・ジョイスのインタビューは、わかりやすく簡潔にするため、わずかに編集されている。
https://www.tiktok.com/@jackxjewell/video/7411642954906963232